【村井敏邦の刑事事件・裁判考(8)】
絞首刑の残虐な刑罰にあたらないか ― 絞首刑の合憲性をめぐる裁判(その2)
 
2011年12月5日
村井敏邦さん(大阪学院大学法科大学院教授)

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「残虐な」の判断基準
「発展する節度の基準(evolving standard of decency)」

 「残虐な刑罰」の「残虐な」の判断基準について、日本の裁判所は、前述のように、実質的な内容を示していません。今回の大阪地裁の判決においても、特別な基準は示されていません。
アメリカの裁判所では、1958年以来、「発展する節度の基準(evolving standard of decency)」が用いられているようです。「節度あるいは品位」というかわりに「尊厳(dignity)」とされることもあります。後者の「尊厳」は、[human dignity](人間の尊厳)という形で使われます。
「刑罰は人間の尊厳を貶めるようなものであってはいけない」というのは、刑罰の最低限の要件として、現在では、世界的にも認められております。日本の監獄法改正の際にも、私たちの研究グループ(刑事立法研究会)では、この基準を受刑者処遇の基本原則に明示すべきだと主張してきました。
[decency]という言葉も、アメリカ法では、よく使われます。日本では、最近は、「品格」という言葉がはやりのように使われていますが、これに似ていると言ってよいでしょう。ただ、「品格」というのは、何か高みを示すような言葉として使われていますが、[decency]というのは、[dignity]と同じく、人間としての最低条件のようなものを意味するようです。この両者は、ほぼ同じように使われます。
たとえば、アグブレイドの米軍捕虜収容所で行われた被収容者を裸にして、犬の格好をさせたり、動物と性的行為をすることを強制するなどは、まさに、人間としての節度や尊厳を害することです。
また、2008年4月16日の薬物注射による死刑の合憲性が争われた事件(Baze v. Rees, 553 U.S. 35)においては、鎮静剤で意識を失わせた後に筋弛緩剤を注射して死に至らせるという過程に、意識を失わないで苦痛を感じたまま死亡するという執行ミスのケースがあるという弁護人の主張に対して、連邦最高裁判所は、鎮静剤で意識を失わないで苦痛を感じたまま死に至るという執行ミスの可能性が「相当ある(a substantial risk of serious harm)」かどうかを判断基準にすべきであるとしました。

残虐性の三つの側面

 「残虐性」は、次の三つの側面から考えることができるでしょう。
第一は、見た目の残虐性です。私たちが、映像などを見て、「残虐だ」と感じる多くは、この見た目の残虐性です。血が飛び散ったり、ばらばらになった死体を見せられると、多くの人が「残虐だ」と感じます。
1948年の大法廷判決が残虐な執行方法の例としてあげている、「火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでの刑」は、この見た目の残虐性の観点から残虐だとされる典型例でしょう。とくに、「さらし首」は死後のことですから、処刑されたときに感じる苦痛は関係ありません。火あぶりやはりつけ、あるいは釜ゆでの刑は、苦痛の程度が並大抵ではないと考えられますので、不必要な苦痛を与えることも、残虐性を考える重要な側面とされていると見ることができます。そこで、「残虐性」の第二の側面は、肉体的苦痛があるかどうです。
苦痛には、肉体的なものだけではなく、精神的なものもあります。そこで、残虐性の第三の側面は、精神的な苦痛ということになります。

絞首刑と肉体的な苦痛

 絞首刑については、縄が首にかけられたと同時に、受刑者の足元の床が「バタン」と大きな音を立てて、下に開き、受刑者が自らの重みで下に落ち、その瞬間に窒息死すると言われてきました。(この絞首刑の執行の状況がテープにとられ、それがラジオ番組に流されたことがあります。この録音は、50年前に拘置所が処遇の改善を求める趣旨でとったものです。読者の中にはこの放送をお聞きになった方もおられるでしょうが、「バタン」と床の落ちる音の大きさには驚かされます)。縄が首にかかるとほぼ同時に、窒息死するので、受刑者は苦痛を感じずに死亡すると言われてきたのです。また、床が落ちた瞬間に縄が首を圧迫して、首の骨が折れるので、これによっても苦痛を感じず死亡するということも言われてきました。
弁護人は、このどちらも間違った意見を基にしていると主張しました。弁護人側が申請したオーストリア法医学会会長のラブル准教授の証言によると、受刑者の足元の床板が落ちて、受刑者の体が床下に落ちても、その瞬間に窒息死することはなく、窒息死までには短くても5ないし8秒、長ければ2ないし3分かかるということです。また、首の骨が折れるということもなく、むしろ、縄のために頭部が切断されるケースがあるということです。
弁護人は、この証言をもとに、肉体的苦痛を与える刑罰として絞首刑を憲法36条に違反すると主張しました。これに対して、裁判所は、意識喪失まで、最低でも5秒から8秒の間、首のしまり方では2分あるいはそれ以上かかり、その間、苦痛を感じ続ける可能性のあることを認めましたが、死刑を言い渡された者は、それぐらいの苦痛を感じるのは、当然としました。
そのうえで、裁判所は、違憲となるのは、「特にむごたらし場合」であり、どのようなときに「特にむごたらしい」ことになるかについては、裁判所が決めることではなく、立法府がきめることだとしました。これは、判断停止ではないでしょうか。何をもって「むごたらしい」と言えるのかについて、まったく回答しないで、立法府の責任に逃げているのです。

頭部の離断について

 もう一つ、弁護人は頭部が離断されることがあるから、その場合には、絞首刑ではなく、断首刑だとして、憲法31条違反を主張しました。
この点については、裁判所は、そうしたことがあるとしても、事例としてはまれなことだから、絞首刑が実は断首刑とまでいうことはできないとして、弁護人の主張を排斥しています。弁護人は、実際に断首の例を挙げて主張したのですが、一般的ではないというわけです。しかし、通常、断首の状態になるという事態を待たなければならないものでしょうか。頭部離断の可能性がある執行方法であり、また、実際にその例があったということならば、その執行方法は見直される必要があるのではないでしょうか。
今回の事件における弁護人の主張とオーストリアの法医学者の研究成果を踏まえて、死刑の執行方法のみならず、死刑という刑罰そのものについて、改めて議論をする必要があると思われます。

 
【村井敏邦さんプロフィール】
一橋大学法学部長、龍谷大学法科大学院教授、大阪学院大学法科大学院教授を経て、現在一橋大学名誉教授。法学館憲法研究所客員研究員。