【村井敏邦の刑事事件・裁判考(78)】
袴田事件、再審請求棄却
 
2018年7月2日
村井敏邦さん(一橋大学名誉教授)
 袴田事件について再審開始決定が出たということは、2014年4月14日号で報告しました。あれから丸4年、本年(2018)6月12日、袴田事件第2次再審請求の即時抗告審決定が出ました。結論は、再審開始決定を取り消して、再審請求を棄却するというものです。
 請求審は検察官による証拠ねつ造を激しく批判して再審請求を認め、再審開始の決定を出したのでした。執行停止、釈放付の画期的な決定でした。
 袴田さんの年齢と身体的・精神的状態を考慮した場合、一日でも早く再審公判を開始すべきです。ところが、検察官は即時抗告して、再審開始決定の要となったDNA鑑定を批判する法医学者の意見を提出しました。そのため、今回の決定までまる4年間もかかったのです。
 請求人・弁護人は、請求棄却決定を不服として、特別抗告をしました。これから特別抗告審の審理が始まるわけですが、仮に、最高裁判所において再審開始決定が出たとしても、それから再審公判が開かれるわけですから、どれだけの時間がかかるかわかりません。袴田さんの年齢のみならず、請求人である袴田さんのお姉さんの年齢も心配です。
 そうした点を考慮したのでしょうか、即時抗告審は、請求を棄却する一方で、拘禁および刑の執行停止の処分は取り消していませんし、また、検察官からの申立てもありません。
 再審請求棄却という結論に賛成する人からも、請求を棄却したうえで、執行停止を継続するというのは、矛盾した判断という批判が行われています。たしかに、再審請求棄却によって、確定審の死刑判決が維持されるわけですから、死刑執行を停止したままにするというのは、その結論に矛盾するように思われます。
 死刑の言い渡しを受けた人が心神喪失の状態にある場合には、法務大臣の命令によって執行を停止することができます(刑訴法479条)。袴田さんの心身の状態が心神喪失状態あるいはそれに近いと判断したということでしょうか。その場合でも、死刑の執行停止は法務大臣の権限とされています。検察官が執行停止の決定の取り消しを申し立てていないということは、法務大臣も執行停止に賛同しているということで、執行停止の命令があったのと同様であると理解してよいのでしょうか。
 即時抗告審は、決定の最後に「刑の執行の停止に関して」として、「再審開始決定の取消決定に伴い原裁判所のした刑の執行停止決定をも職権により取り消すか否かは,事案の重大性や有罪の言渡しを受けた者の生活状況,心身の状況等を踏まえた身柄拘束の必要性,上訴の見込みの有無等を踏まえた抗告裁判所の合理的な裁量権に委ねられているものというべきである」とし、袴田さんの「現在の年齢や生活状況,健康状態等に照らすと,再審開始決定を取り消したことにより逃走のおそれが高まるなどして刑の執行が困難になるような現実的危険性は乏しいものと判断され,特別抗告における抗告理由の制限等を考慮しても,再審請求棄却決定が確定する前に刑の執行停止の裁判を取り消すのが相当であるとまではいい難い。」としています。
 袴田さんの状態からするならば、再審請求棄却によって直ちに収監するというのは、袴田さんの心身に対して決していい効果を生みません。その意味で、法律的な問題はともかく、拘置が停止され、死刑執行も停止された状態にあるというのは、人道的には至当な判断だということになるでしょう。

棄却理由について
 確定判決は、事件から1年経った時期にみそ樽から発見された衣類5点を犯行当時犯人が着ていたものとし、それらは袴田さんの着衣であるから、袴田さんが犯人であるとしました。これに対して、再審請求において、弁護人は、(1)5点の衣類等のDNA型鑑定に関する証拠、(2)5点の衣類の色に関する証拠などを提出しました。再審開始決定においては、この二つの証拠群のうち、(1)については、本田鑑定といわれる鑑定および意見、(2)については、5年の衣類の味噌漬け再現実験報告書などを重視して、5点の衣類に付着していたDNA型が袴田さんのものと一致せず、また、5点の衣類そのものが袴田さんのものではないとして、再審請求を認めました。
 即時抗告審では、検察官は、開始決定が重視した本田鑑定が信用できないと主張し、その旨の鑑定意見を提出しました。即時抗告審決定は、この検察官の主張を是として、開始決定を取り消し、請求を棄却したのです。
 本田鑑定の信用性を否定する検察官や即時抗告審の議論には、誤解に基づくものがあると思われますが、ここでは、この点には触れず、本田鑑定の手法との関連で、裁判所が再審における証拠として用いるのは不適当と判断したところについてだけ取り上げます。

新しい手法による科学鑑定の採否に関する議論
 再審開始決定の基礎になったDNA鑑定は、日本ではあまりやられていない方法を用いていました。抗告審はこの点を問題にしました。「細胞選択的抽出法は,本田が考案した新規の手法である上,本田以外の者が,同手法によって陳旧血痕から血球細胞とその他の細胞とを分離した上,血液由来のDNA型鑑定に成功した例も報告されていないのであって,この種の抽出手法として,一般的に確立した科学的手法とは認められない。」とし、「一般に,自然科学の分野では,実験結果等から一定の仮説が立てられると,他人にその仮説の正当性を理解してもらうために,その理論的根拠や実験の手法等を明らかにし,多くの者がその理論的正当性を審査し,同様の手法によりその仮説に基づいたとおりの結果が得られるか否かを確認する機会を付与して,多くの批判的な審査や実験的な検証にさらすことによって,その仮説が信頼性や正当性を獲得し,科学的な原理・手法として確立していくのである。したがって,一般的には,未だ科学的な原理・知見として認知されておらず,その手法が科学的に確立したものとはいえない新規の手法を鑑定で用いることは,その結果に十分な信頼性をおくことはできないので相当とはいえず,やむを得ずにこれを用いた場合には,事情によっては直ちに不適切とはいえないとしても,科学的な証拠として高い証明力を認めることには相当に慎重でなければならないというべきである。」としました。
 たしかに、即時抗告審が示しているように、私も所属している日本DNA多型学会の1997年と2012年の「DNA鑑定についての指針」は、「DNA鑑定を実施する機関は、鑑定当時の時間的背景に基づき、一般的に許容された検査法を鑑定に用いる」とされています。
 新しい手法を用いる場合には、その領域の専門家集団の一般的承認を得た物でなければならないとされているのに、請求審が採用したDNA鑑定は、その鑑定人独自のもので、一般的承認が得られていないというのです。
 科学的証拠について、専門家集団の一般的承認が必要という基準は、フライテストといわれるもので、私なども、検察官側の科学証拠については、この基準が適用されるべきであると、主張しています。有罪を基礎づける証拠は、よほどしっかりとしたものでなければいけないからです。科学的証拠について言えば、だれもが認める確立された方法でなく、まったく検証ができないような新しい手法を用いた場合、反証の可能性が極端に低くなります。「合理的な疑いを超えた証明」には、反証の機会を奪うような手法は適格ではありません。
 たとえば、和歌山カレー事件においてヒ素の同一性判定のために用いられた「スプリング・エイト」は、一般的承認基準からすれば、大いに問題になり得る手法でした。ところが、裁判所は、このような場合には、一般的承認基準を用いることをしませんでした。
 これに対して、今回の本田鑑定は、弁護側が無罪を立証する必要のための鑑定手法として提出したものです。弁護側は無罪を証明する必要はなく、有罪証拠に対して疑いをさしはさむ程度の証拠を提出すればよいのですから、一般的承認基準を検察側証拠と同様に適用すべきではなく、むしろ、新しい手法によるものも、広く認められるべきです。
 選択的抽出方法が国際的にも一般的に承認されていない方法であるか否かについては、弁護側から反論のあるところでしょうが、かりにまだ一般的承認を得ていないとしても、合理的な疑い原則を適用するならば、その手法を用いた鑑定を排斥する根拠とはならないのです。
 
【村井敏邦さんプロフィール】
一橋大学法学部長、龍谷大学法科大学院教授、大阪学院大学法科大学院教授を経て、現在一橋大学名誉教授。法学館憲法研究所客員研究員。