裁判員制度導入がもたらしたもの  
2012年8月20日
大出良知さん(東京経済大学現代法学部教授)

 裁判員裁判が実施され、3年が経過しました。これで、法律自身が、必要であれば改善を行うこととしているいわば観察期間が経過することになりました。ということもあり、様々な視点から実施状況をめぐる議論が活発に行われています。その内容は、全面礼賛型から部分評価型まで、かなり幅があるものの、実施前に多く見られたような全面否定型の論評は、少なくなってきているように思われます。
 それは、裁判員制度の導入が、明らかに刑事手続の運用に変化をもたらし、従前の刑事司法の問題点として指摘されてきた点を改善しつつあるからだと思われます。その進捗具合の程度をめぐって、評価が分かれることになっているのであって、もはや、「素人」である国民に裁判をさせるわけにはいかないとか、捜査手続の改革はじめ条件整備なしに裁判員制度は機能しないといった類の非難・批判は、通用しないと思われはじめているといってよいでしょう。
 それでは、従前の刑事司法の問題点は、どのように特徴づけられていたのかをあらためて確認しておきましょう。被疑者の長期間の身体拘束を手段とする自白の追及と獲得を目指す「人質司法」。その結果得られた自白に全面的に依拠する「自白偏重主義」。そのような捜査段階の密室で作成された供述調書が公判審理をも支配する「調書裁判」。その結果公判の審理では、何が行われているか全く分からず、心証は裁判官室での調書読みによって形成される「密室裁判」。そのような調書裁判・密室裁判は、同じ官僚としての検察官の訴追意思が最大限に尊重される「官僚裁判」であり、有罪推定からスタートして、被告人に無罪の立証を要求するといったことにもなっていました。すなわち、「合理的な疑い」を超えた有罪立証が行われない限り無罪にしなければならないという刑事裁判の鉄則が無視されてきたのです。
 これに対して、裁判員裁判の導入によって制度的に変えることができた中心は、公判審理への「裁判員の参加」であり、それに伴う「公判前整理手続」の導入であり、「証拠開示のルール化」でした。ですから、見ようによっては、何故これで、前述のような刑事司法の状況を変えることができるのか、という疑問が提起されることになったのかもしれません。それに、証拠開示も、弁護士などの要求だった「事前全面開示」は実現しませんでしたし、その他の点でも、最高裁などの国民参加に対する消極的姿勢や、警察・検察との妥協の結果という面があったことも否定できないからです。
 しかし、国家的制度である刑事司法の改革にあたって妥協なしに官僚達の思惑を超える改革を実現することは、ほとんど不能でしょう。そのような状況の中で、妥協の結果であっても、上述のような刑事司法の改革につながる要諦があり得るのか、それが何かを見極めることが必要であったということだと思います。妥協を回避することが極めて困難な中で、条件整備を優先すべきだという議論は、悪しき刑事裁判の実態を前に百年河清を待つに等しい議論と言わなければなりません。
 ともかく導入が実現できた裁判員制度も、司法制度改革審議会の「意見書」では、最終的に刑事司法改革の一環として位置づけられたわけでもありません。それは、刑事司法は、「基本的に良く機能している」とする最高裁の抵抗に配慮したからだと考えられますが、あくまでも「国民的基盤の確立」のための方策と位置づけられていました。
 ということですが、「国民的基盤の確立」ということになれば、一部篤志家の参加ということにとどめるわけにはいきませんし、検察審査会という前例もある中で、裁判員は無作為の抽選による選出ということにならざるを得ません。とすれば、できる限り参加する国民の負担を少なくして、充実した適正な裁判を実現しなければならないということになります。
 そのためには、「予断排除」という原則を貫きながら可能な事前準備を行い、公判の審理を集中的に行うことを考えなければなりません。そこで、公判前整理手続が導入され、準備を充実したものにするために幅広い証拠開示がルール化されました。また、集中的な公判審理によって有罪無罪の判断ができなければなりませんから、充分な準備はもちろんですが、その準備が公判審理において判断可能な内容として表現される必要があります。
 それは、裁判員にとってのわかりやすさであることはもちろんですが、被告人や傍聴席にとってのわかりやすさでもなければなりません。ですから、「調書」の要旨を告知をして、後で評議室でそれを読み直すといった方法は許されませんし、法廷で「調書」の全文を読み上げるといった方法も立証方法としては、基本的に避けるべきことになります。そのことで審理内容の適正性の確認もできることになります。
 また、密室で作成された自白調書が、証拠として利用可能かどうかも実質的には裁判員の判断が尊重されることになりますから、不当な取調べが行われていないことの立証責任は、原則通り検察官が負わなければならないことになります。つまり、取調べの可視化ということが課題にならざるを得ませんし、そもそも無理な取調べで「自白調書」を作成するといったこと自体に意味がないことにもなります。
さらに、公判審理では、刑事裁判の原則が、原則通りに説明され、機能する道が開かれることにならざるを得ません。これまでのように、お互いプロなんだから分かっている、という前提で実質的には勝手な解釈・運用に委ねるということは許されなくなります。具体的には、無罪推定の原則があるということは、有罪の立証ができなければ無罪であるということや、有罪にするためには「合理的な疑い」が残っていてはいけないといったことですが、その上で肝心なことは、無罪の推定が働いている片面性の中で要求されている「合理的な疑い」とはどの程度の疑いということかも、原則通りに裁判員にとって納得のいく説明が求められることになります。その結果、あらためて「反対事実の可能性の存在」であったり、「犯人でないとすれ説明できない事実の不存在」といったことが、「合理的な疑い」の内実として確認されることにならざるを得ないということです。
 もちろん以上の説明は、理念的論理的なポイントの説明という面を持っていますが、現実にもこの説明に添った事態が生まれつつあるというのが、その多少についての評価は分かれるものの関係者の認識になりつつあるというのが、冒頭でご紹介した現状ということになるでしょう。
 次回にその具体的な帰結の状況とその成果をさらに進展させるための課題について考えてみたいと思います 。

<次回に続く>
 
【大出良知さんのプロフィール】
九州大学法科大学院長などを経て、現在東京経済大学現代法学部長。専攻は刑事訴訟法、司法制度論。
『裁判を変えよう−市民がつくる司法改革』『長沼事件 平賀書簡−35年目の証言、自衛隊違憲判決と司法の危機』など著書多数。