【村井敏邦の刑事事件・裁判考(35)】
最高のヒーローは、弁護士アディカス
 
2014年5月12日
村井敏邦さん(大阪学院大法科大学院教授)
■東京新聞のコラム・筆洗より

 前々回、日本と韓国で尊敬される法律家について書きました。今回は、アメリカの法律家を扱います。この法律家は実在の人ではなく、映画作品に登場する弁護士です。まずは、この弁護士に触れた4月5日付け東京新聞のコラム・筆洗を引用しましょう。

「▼映画作品に登場する、最高のヒーロー、英雄は誰か。全米映画協会(AFI)が二〇〇三年に選出したことがある。一位が誰だか分かるだろうか▼インディ・ジョーンズも、スーパーマンも外れである。正解は、「アラバマ物語」(一九六二年)の弁護士アティカス・フィンチ(グレゴリー・ペック)である。米国ではもちろん、日本でも評価は高いが、派手なアクションがある作品ではない▼一九三〇年代、米南部アラバマ州の架空の町。黒人への根深い差別がある。フィンチは無実の黒人容疑者の弁護を引き受ける。妨害、いわれなき批判。それでもフィンチは闘い続ける▼「英雄」の条件は腕力でも、もちろん銃の腕前でもない。絶望的な状況においてもあきらめぬ姿勢こそが「英雄」の名に値する。フィンチが一位に選ばれた理由もそこにあるのだろう▼十三日、米カンザス州のユダヤ系施設で、銃撃事件があった。三人が殺された。逮捕された男は、白人至上主義者クー・クラックス・クラン(KKK)の元幹部と地元紙が伝えている。ユダヤ系住民への差別に根差したヘイトクライムの可能性が高い▼事件のあった施設内の劇場ではこの日、「アラバマ物語」の芝居が上演される予定だった。「人を理解するには、その人の靴を履いて歩け」。映画の名ぜりふだが、容疑者の靴を履いてもその心を理解できそうもない。」

■アラバマ物語

 『アラバマ物語』は、1930年代のアラバマ州の架空の田舎町メイカムを舞台にした映画です。映画は1962年の製作ですが、原作はピューリッツア賞作家ハーパー・リーの1960年の‘To kill a mockingbird’(「マネツグミを殺すこと」)です。この原作の由来は、ジェムがほしがっていた銃に関連して言った、次のアティカスの言葉にあります。
 (ティカスはジェムにほしがっていた銃を渡しながら)
アティカス「その銃をくれた時の親父の言葉を思い出すんだよ。親父は、家の中のものを決して狙ってはいけない、裏庭でブリキ缶を撃ったほうがいいだろうと話してくれた。でも、いずれ鳥を撃ちたくなるだろう、撃ちたいならば、青カケスを撃つのはいいけれど、マネツグミを殺すのはつみだ(to kill a mockingbird is a sin)ということを覚えておけといったんだ。」
ジェム「どうして?」
アティカス「マネツグミは唄を歌って私たちを楽しませてくれるほかに何もしないからだよ。庭のものを食べないし、トウモロコシ倉に巣を作るわけではない。わたしたちのために心のたけを大声で歌ってくれるだけなんだよ。」

 アティカス・フィンチは弁護士です。妻を早くに亡くし、男の子ジェムと女の子スカウトの二人の子どもを育てています。映画は、スカウトの語りで進められ、一家をめぐる出来事を子供の目から見ていきます。
 ある夜、判事がアティカスを訪ねてきます。大陪審が、黒人青年トムが白人女性メイエムを強姦したという罪で起訴することを決定した。判事としては、アティカスをこの事件の弁護人として任命したいが、忙しいのはわかるが、ぜひ受けてもらいたいというのです。アティカスはちょっと考えますが、引き受けます。しかし、黒人差別の激しい中で、黒人の弁護をすることに対して周囲の反感は強く、フィンチ一家は危険な目にあわされます。裁判では、黒人差別の強い風土の上に、陪審員は全員白人という中で進められます。アティカスは、メイエムがトムを誘って、無理にキスをしようとしたところを父親に見つかり、このことを隠すためにトムに強姦されたという嘘のストーリーを作り出したことを明らかにします。
 しかし、陪審員は有罪の評決を出します。その上、トムは護送の途中で逃げ出して、保安官補に撃たれて死んでしまいます。

■事件の本質 被害者の「罪」について

 アティカスは、最終弁論で、この事件の本質について語ります。
 アティカスは、この事件が裁判になるようなものではなく、検察官は、被告人が犯罪を犯したことを証明する証拠を何一つ示していないことを指摘します。そして、被害者が自分が犯した罪(guilt)を隠すために、人の命を危険に晒したものだといいます。
 「私は、ここで罪といいました。彼女の行動の動機がそうだからです。彼女は犯罪(crime)を犯したわけではありません。彼女は世間の戒律を破っただけです。これを破った者は、社会から疎まれ、生きていられなくなります。そこで、彼女は、自分の罪の証拠を消してしまわなければならなかったのです。
 「でも、証拠とは何か。トム・ロビンソン、人間です。彼女にはトムを消し去る必要があった。」
 白人女性が黒人男性、しかも若い黒人男性を誘ったなどということは、われわれの社会のルールを破ることで、誰にも言ってはいけないこと、これがメイエムの罪だった、これを隠すために、被害者はトムを冤罪に巻き込んだと、アティカスは述べます。
 ここで、前に出てきた「マネツグミを殺すのはつみだ」という時の「つみ(sin)」とは違う「罪(guilt)」と「犯罪(crime)」という、よく似た言葉が出てきました。第一のものは、「原罪」とも訳されるように、心の「つみ」です。第二番目のものは、社会的な意味での「つみ」であり、最後のものは法律的な意味での「つみ」を意味しています。この物語のおもしろさは、社会にはびこる差別をこの三つの「つみ」との関係で描いているところにもあります。

■最終弁論の第二のポイント 人はみな平等であること

 アティカスは、最後に「平等」という価値について述べます。
「この国では、裁判は絶対の公正が約束されており、裁判では、人はすべて法の下に平等です。私は、この国の裁判や陪審制度に何の疑いも持たないで信じる理想主義者ではありません。裁判は、私にとっては理想ではなく、生きて、働いている現実です。」
 これは、映画の中でのアティカスの言葉ですが、少し唐突な感じがします。原作で補足しましょう。
 原作では、この前に、アティカスは、トーマス・ジェファーソンが言った言葉として、「人はみな平等に創られている」を引用し、しかし、現実には、貧富の差があり、必ずしも平等ではないことを指摘します。しかし、この国の中で、唯一平等が保障されている制度があると述べます。
 「その制度とは、裁判所です。……この国の裁判制度にも欠点があります。しかし、わが国では、裁判は絶対の公正が約束されているのです。……」
 白人の中にある黒人に対する差別と偏見を排除して、現実の目の前の事件と被告人を見て、トムを有罪にするだけの証拠があるかを判断してほしい、これが白人の陪審員たちにアティカスが望んだことでした。

 アティカス・フィンチという弁護士が、アメリカ一のヒーローとして選ばれたことの意味はどこにあるのでしょう。
 差別と偏見が渦巻く中で、四面楚歌の状態でも差別と偏見に抗して黒人を守る姿が、アメリカの人の心をゆさぶるからでしょうか。在日の人に対する偏見が依然としてある現在の日本社会でも、ここに語られている価値は、改めて見直してみる意味があるでしょう。
 
【村井敏邦さんプロフィール】
一橋大学法学部長、龍谷大学法科大学院教授、大阪学院大学法科大学院教授を経て、現在一橋大学名誉教授。法学館憲法研究所客員研究員。