【村井敏邦の刑事事件・裁判考(28)】
偏見と差別による死刑執行:菊池事件
 
2013年10月7日
村井敏邦さん(大阪学院大法科大学院教授)
 前回まで、飯塚事件について書いてきましたが、再審請求についての決定がいつ出るのか、少々遅れているようです。そこで、今回は、この事件や前に取り上げた大逆事件と同じように、死刑が執行された後にも冤罪が問題になっているもうひとつの事件を取り上げたいと思います。それは、菊池事件です。

死刑再審4事件と死後再審事件

 白鳥決定以後、死刑判決が確定して、再審が開始され、無罪となった事件は、4事件あります。免田事件、財田川事件、島田事件、松山事件です。1979年6月7日の財田川事件を皮切りに、免田事件(9月27日)、松山事件(12月6日)と、3事件が1979年中に再審開始決定がありました。松山事件の再審開始決定は、1987年5月20日と少し後ですが、再審無罪判決は、4事件ともに80年代に確定しています。しかし、この後は、死刑事件についての再審無罪判決はありません。
 上記4事件での再審無罪判決が続いた当時には、再審実務の変化のみならず、死刑制度と再審法が見直されるのではないか、いや、見直されるべきであるという議論が高まったのですが、残念ながら、政府・法務省にはそうした動きは見られませんでした。
 死刑を廃止した諸外国の状況を見てみると、死刑事件で誤審が判明したときには、死刑廃止への世論が盛り上がり、死刑制度の廃止へと向かっています。ところが、日本では、一定程度の世論の盛り上がりはありましたが、死刑制度廃止の議論にまでは至っていません。ハワイ大学の教授デヴィット・ジョンソン氏は、どうしてそうなのか、大きな謎だと問題を提起しています。
 再審制度の見直しについても、同様のことが言えます。再審に関する刑事訴訟法の規定は、435条から453条のたったの18か条です。再審請求の具体的な手続や再審請求審での手続きなどについては、具体的な規定がありません。再審請求の時期については、特に制限がありませんが、請求人については、検察官か有罪の言い渡しを受けた人またはその関係者に限定されています。
 前にこの欄で扱った大逆事件について再審請求を行おうとしても、関係者はほとんど見当たりません。有罪の言い渡しを受けた人の多くが死刑を執行されていますし、そうでない人についても、当人は一人も生きていません。その遺族も、大逆事件の関係者であることを知られたくないなどの理由から、再審請求をすると言っても、名乗りを上げてくることは、ほとんど期待できない状況です。
 同様の状況は、これから扱う菊池事件についても起きています。

菊池事件について

 菊池事件とは、ハンセン病患者だとされた人が、殺人事件の犯人として死刑を言い渡され、確定後再審請求が却下された直後に死刑の執行が行われた事件です。
 1948(昭和23)年11月6日、厚生省通牒「無らい方策実施要項」が実施され、ハンセン病患者のための増床と一斉検診が指示されました。1949(昭和24)年6月24-25日には、全国ハンセン病療養所所長会議において「無らい県運動」の再開が確認されるなど、ハンセン病患者に対して、「絶対隔離・絶滅政策」と呼ばれる政策が推進されました。熊本県でも、ハンセン病患者の現況調査を行ない、その調査の結果、Fさんを含む数人がハンセン病患者として通報されました。
1951(昭和26)年1月9日、熊本県は、Fさんに対してハンセン病患者収容施設国立療養所菊池恵楓園への入所を勧告しました。同年8月1日、ハンセン病患者の通報を行った熊本県S村役場の元職員H氏宅にダイナマイトがしかけられるという事件が発生しました。この事件で、同月3日、通報の対象とされたFさんが通報を逆恨みして起こした事件だと疑われ、殺人未遂、火薬類取締法違反容疑で逮捕され、同月20日に熊本地方裁判所に起訴されました。
 1952(昭和27)年6月9日、熊本地裁は、Fさんに対して、殺人未遂罪で有罪、懲役10年の判決を言い渡しました。これに対して、Fさんは即日控訴しました。
 同月16日、Fさんは、恵楓園内に設けられた熊本拘置支所から逃走し、指名手配されました。Fさんが逃走中の7月7日、H氏が惨殺死体で発見されました。この事件についても、Fさんが犯人とされ、同月10日、逮捕状が発布され、それから2日後の同月12日、逮捕されました。
同年8月2日、Fさんは、まず、菊池恵楓園の拘置所から逃走した件について、単純逃走罪で起訴されました。その後11月22日、H氏に対する殺人罪で追起訴がされました。

裁判の経過

 ダイナマイト事件は、すでに見たように、1952年6月9日、熊本地裁は、3回の公判を経て、有罪判決を下し、これに対する控訴、上告いずれもしりぞけられ、懲役10年の判決が確定しました。公判はすべて菊池恵楓園の中で行われ、Fさんは一度も公開裁判を受けることがなかったのです。
 別々に起訴された単純逃走罪と殺人罪の裁判は、12月5日に併合され、以後同一の公判で審理されました。この審理も、1953年3月に菊池医療刑務所完成するまでは、菊池恵楓園内で、1953年以降は、菊池医療刑務所内の特別法廷で開かれました。控訴審も、この特別法廷で行われたので、すべての裁判を通じて、Fさんは一度も公開裁判を受けていません。
 1953年8月29日、熊本地裁の判決は、死刑でした。Fさんは、9月2日福岡高裁に控訴しましたが、ここでも死刑判決が維持されました。上告審においては、2回口頭弁論が開かれましたが、1957年8月23日、最高裁は上告を棄却し、さらに、判決訂正の申立も棄却して、同年9月25日、死刑が確定しました。

再審請求棄却と死刑の執行

 再審請求は、同年10月2日、1960年12月20日、1962年4月と、3回行われましたが、第3次再審請求も、同年9月13日に棄却されました。
 第3次再審請求が棄却された翌日の9月14日、Fさんは、死刑を執行されました。死刑の執行は法務大臣の死刑執行指揮書への押印によって決定されます。Fさんに対する死刑執行指揮書への法務大臣の押印は、第3次再審請求棄却前の同月11日にすでになされていたのです。再審請求に対する結論が発表される前に、死刑の執行が決定されていたということです。

菊池事件の問題点

 菊池事件の捜査・裁判は、事実認定を別にしても、極めて異常な手続きの連続でした。当初から、Fさんの犯行を認めるような証拠がほとんど見つからない段階で、ダイナマイト事件も殺人事件もFさんの犯行として逮捕・起訴が行われたこと、裁判がすべて菊池恵楓園の中で行われ、一度も公開裁判が開かれなかったこと、再審請求中であるにもかかわらず、死刑執行が決定され、再審請求棄却決定直後に執行されたこと、これらの事実は、すべてハンセン病に対する偏見と差別に起因しているということができるでしょう。司法全体が一日も早くFさんをこの世から消し去ろうとしていたかのようです。

死刑執行後の再審請求への道

 死刑執行後、再審請求人であったFさんがいなくなったために、請求人としてふさわしい人が見つからない状態になっています。しかし、死刑執行直前まで、Fさんと弁護団は再審請求を重ねて、冤罪を晴らす努力をしていました。請求人が見つからないということで、この不当な状態をそのままに放置しておいてよいのか。
 現行法では、刑を受けた当人やその親族以外で再審請求人となることができるのは、検察官です。弁護団は、検察官には不当な人権侵害状態をただす役割があると考えて、検察官に再審請求をすることを要請しています。
 実は、検察官請求の再審請求というのは決してまれなことではありません。身代わり犯人の有罪が確定したことが判明して場合には、検察官による再審請求によって無罪となっているケースはよくあります。検察官による再審請求はこのような場合に限らないでしょう。あまりにも不当な人権侵害手続きによって有罪が確定した場合には、「公益の代表者」としての役割を与えられている検察官は再審請求をする義務があるというべきでしょう。

冤罪救済システムの構築の必要性

 アメリカには、イノセント・プロジェクトという取り組みがあり、これによって間違って有罪とされ、刑務所に収容されていた多くの人が冤罪であったことが判明して、社会に戻ってきています。日本にも、このようなシステムの構築が必要です。
 また、イギリスでは、再審委員会があって、誤判冤罪の可能性がある事件は、この委員会の審査にかかり、再審の必要性が検討されます。
 日本でも、司法の内部にこのようなシステムを構築することは可能なはずです。現在、法科大学院制度によって法曹人口が増加しています。いたずらに、法曹人口増加を批判するのではなく、むしろ、このような新しいシステムを構築して、若い法律家の力を利用すべきではないでしょうか。
 筆者は、前々から、司法の各部署に誤判冤罪調査委員会を設置して、それぞれから調査会からの申し立てによって再審が請求できるようなシステムの構築を提案しています。菊池事件や大逆事件の再審はこのようなシステムがあれば、可能となるでしょう。
 
【村井敏邦さんプロフィール】
一橋大学法学部長、龍谷大学法科大学院教授、大阪学院大学法科大学院教授を経て、現在一橋大学名誉教授。法学館憲法研究所客員研究員。