山本最高裁判事の発言をめぐって  
2013年9月2日
大出良知さん(東京経済大学現代法学部教授)
 8月20日付けで最高裁判事に就任した山本庸幸氏の就任記者会見での発言が、波紋を広げています。ご承知のように、前内閣法制局長官であった山本氏は、憲法9条と集団的自衛権の関係について問われ、これまでの法制局見解に沿い、第9条で集団的自衛権を認めることはできないと述べ、さらに集団的自衛権を実現したいのであれば、憲法を改正すべきだ、と述べたというのです。
 この発言が波紋を広げるについては、いくつかの背景がありました。まず、安倍内閣が、憲法9条の解釈を変更し、集団的自衛権の行使に道を開こうとしていると考えられていたこと。そして、そのためには、集団的自衛権の行使を一貫して違憲としてきた内閣法制局の見解を変えさせる必要があると考えていたと想定できたこと。その想定を裏付けるように山本氏の後任に、内閣法制局出身者ではなく、集団的自衛権容認派として知られる小松一郎前駐フランス大使を当てるという極めて異例の人事を行ったこと、等があります。その上、山本氏の発言について、菅内閣官房長官が、最高裁判事の発言に不快感を示すというおまけまで付きました。
 ということで、山本氏の発言が、 @最高裁判事就任記者会見での発言として適切だったのか、A内閣官房長官が、既に最高裁判事に就任している山本氏の発言を批判したことが司法に対する行政権からの介入にならないか、といったことが問題にされることになりました。
 まず、@の点から考えてみましょう。いうまでもなく、裁判官に求められている職責は、「その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」(日本国憲法76条3項)ということです。それに、最高裁判事は裁判に当たっても自らの意見を「表示しなければならない」(裁判所法11条)ということになっています。
 ところが、これまでは、裁判に当たっても必ずしも個々の意見が充分に開陳されてきたわけでないだけでなく、それぞれの判断が「良心に従ひ」行われているのかどうかを判断するための材料としての人格・識見に関わる情報があまりにも少なすぎるということの方が問題だったのではないでしょうか。国民審査にあたっても、その制度の不十分性はともかく、判断の材料が十分でないことは、常に指摘されてきたところです。
であれば、山本氏が、内閣法制局長官という専門家として示してきた理解を、立場が異なったから違える、あるいは質問に答えないというのでは、かえって違和感のあることでしょう。そのような意見を持っているということが分かっているからこそ、国民は、山本氏が最高裁判事として、将来、仮に集団的自衛権に関する訴訟に関与することになった際、「その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」という立場を堅持したかどうかを判断することができるのではないでしょうか。
その意味では、最高裁判事は、もっと自由に発言し、国民に審査に当たっての材料を提供すべきだということにもなります。であれば、Aの問題に関わりますが、任命権を持っている内閣の官房長官が、一定の政治的立場から、その発言を批判するといったことは厳に慎むべきことでしょう。任命権を持った立場からの政治的発言は、裁判所における水面下での自主規制を生み、政治的立場を「良心」に優越させる判断を生み出しかねません。
 嘗て自民党長期政権の下で、1960年代末に国家公安委員長や法務大臣の公然たる裁判所批判の後に起こった、いわゆる「司法の危機」は、1970年代から、30年以上にわたって日本の司法の土台を歪め、蝕んできたといっても過言ではありません。21世紀になって進められてきた司法改革によっても、その打開の道筋が明確に示されたわけではありません。外部からの圧力に対して内部的に対応し、職権の独立を侵害しかねないシステムである司法官僚制が維持されているからです。
 さらに、実は問題は、別のところにもあると考えられます。今回の事態は、そもそも安倍内閣が、集団的自衛権についての憲法解釈を変えるために、見解を異にする内閣法制局長官を更迭したところからはじまった話です。内閣法制局長官は、行政官とはいえ、内閣の法律解釈に責任を負う立場にあり、政治的に恣意的な解釈態度をとるといったことはあってはならないでしょうが、行政官である以上、その身分保障に限界があることも否定できません。結果、更迭ということになったのでしょうが、その更迭して異動させた先が最高裁判事で、内閣としては思わぬ反撃に遭った、という構図でもあるでしょう。
 それは、最高裁判事のポストが指定席のように行政官出身者に割り当てられ、内閣法制局長官経験者がそのポストに就くということも多かったからです。今回の事態は、そのような既得権的人事はじめ密室性の高い最高裁判事の人事のあり方自体も考え直してみるべき時期にきているということを示しているともいえるでしょう。