【村井敏邦の刑事事件・裁判考(17)】
歴史的事件の再審請求 −大逆事件を中心として(1)
 
2012年10月8日
村井敏邦さん(大阪学院大学法科大学院教授)

 戦後まもなく、いくつかの大きな冤罪事件が起きています。1949年(昭和24年)7月15日に、三鷹駅で無人列車が暴走して多数の死傷者を出した三鷹事件もその一つで、これについては、昨年(2011年)11月、2回目の再審請求申し立てが行われています。そのほか、1947年(昭和22年)5月20日に福岡市内で起きた中国人衣類商などの射殺事件(福岡事件)でも、2005年に死刑執行後の再審請求が申し立てられましたが、遺族・共犯者の死亡で、一旦は打ち切られましたが、再度、再審請求を行おうという動きがあります。終戦間際の治安維持法事件、横浜事件については、すでに再審公判が開かれ、2009年4月6日に免訴判決が確定しています。
 この横浜事件では、治安維持法の廃止時期が問題となりました。ポツダム宣言受諾によって治安維持法が廃止されたということならば、受諾後の治安維持法の適用は、刑事訴訟法337条2号「犯罪後の法令により刑が廃止されたとき」にあたり、免訴事由になります。横浜事件では、受諾後1945年8月15日の終戦の日までの間に治安維持法で有罪判決が出され、確定しました。そこで、再審請求が申し立てられたのですが、請求人は、治安維持法違反の事実そのものを争っているので、有罪認定を覆してほしいというのが、第一次的な申し立て内容です。免訴ではなく無罪判決を請求したのです。しかし、裁判所は、この点については、すでに法律が廃止されているということで免訴となる場合には、無罪判決を求めることはできないとして、請求人の申し立てを認めませんでした。
 実は、この事件での本当の問題は、治安維持法の存在そのものでしょう。治安維持法は現在の憲法下であるならば、憲法違反の法令として無効となるべきものです。
現在の憲法から考えるとき、基本的人権を侵害するものとして、憲法適合性が問題となり、戦後廃止された法令の典型が治安維持法ですが、そのほかに、刑法のいわゆる大逆罪も、1947年の刑法改正によって憲法との関係で削除されました。しかし、大逆罪で処罰された人の名誉は、依然として回復されていません。
昨年2011年は、大逆事件の裁判から100年経ちました。これを記念して、ドキュメンタリー映画『100年の谺(こだま):大逆事件は生きている』が作成されました。私も所属している大逆事件再審検討会では、再審請求を行う方向で研究会を重ねています。そこで、今回は、大逆事件を振り返り、その再審請求の動きについて、見ていくことにします。

大逆事件とは

 長野県警は、長野県明科製材所汽罐取扱職工長宮下太吉を幸徳秋水らと意を通じる社会主義者として、密偵を使うなどして、その動静を監視していました。1910年(明治43年)5月25日、宮下から頼まれて爆発物を預かったとの同製材所職工清水太市郎の陳述を得て、宮下を爆発物所持の現行犯として逮捕しました。これを皮切りに、新村忠雄、古河力作らをも逮捕され、当時、『自由思想』を秘密に発送したということで出版法違反に問われ、罰金の換刑処分として東京監獄で労役中であった管野須賀子も取調べを受けました。この時点では、爆発取締罰則違反の罪での逮捕・取調べでしたが、その後、宮下らの「自供」にもとづいて、幸徳秋水、管野須賀子等を含む七名に対して、刑法73条の「大逆罪」で「予審請求」(起訴)がされました。最終的には、全国で26名(東京:幸徳秋水、管野須賀子、奥宮健之、横浜:内山愚童、大阪:森近運平、武田九平、岡本頴一郎、三浦安太郎、岡松寅松、小松丑治、和歌山:大石誠之助、成石平四郎、成石勘三郎、高木顕明、峯尾節堂、崎久保誓一、長野:宮下太吉、古河力作、新村忠雄、新村善兵衛、新田融、熊本:松尾卯一太、新美卯一郎、坂本清馬、佐々木道元、飛松與次郎)が大逆罪で起訴され、大審院の公判に付されました。
 大逆罪とは、天皇、皇太子に対して危害を加えようと企図したことをもって成立する罪です。刑は死刑で、裁判は大審院の専属管轄となっていました。

秘密裁判の結果

 裁判は、非公開の秘密裁判で行われ、1911年(明治44年)1月18日、爆発取締罰則違反の2名(新村善兵衛、新田融)を除く24名に死刑の判決が言い渡されました。しかし、翌19日には、死刑宣告を受けた24名のうち、坂本清馬、高木顕明、峯尾節堂、崎久保誓一、成石勘三郎、佐々木道元、飛松與次郎、武田九平、岡本頴一郎、三浦安太郎、岡松寅松、小松丑治の12名が、勅令によって無期懲役に減刑されました。
 その反面、減刑されなかった12人の人たちの死刑の執行は、異例の早さで行われました。判決から6日後の1月24日、幸徳秋水ら11名の死刑が執行され、翌25日に、管野須賀子の死刑執行が行われました。一日に11名の死刑執行を次々に行ったというのも、異例のことです。菅野須賀子が翌日に回されたのは、11名の死刑執行が終わった時点で夜になったからです。

1961年の再審請求

 秋水らの死刑執行から満50年を経た1961(昭和36)年1月18日、無期懲役に減刑された被告人の一人坂本清馬が、刑死した森近運平の妹栄子と共同で再審請求を提起しました。
 大審院判決が認定した事実によると、1908(明治41)年3月13日頃、宮下大吉の発意で天皇暗殺の企図が芽生え、その意を知った秋水から、東京巣鴨の「平民社」において、大石誠之助、森近運平に、さらに、松尾卯一大、坂本清馬に対し「赤旗事件連累者の出獄を待ち決死の士数十名を募って富豪の財を奪って貧乏人に配り、諸官署を焼き払い顕官を殺し、宮城に追って天皇に対して危害を加えるべし」という意志が示され、清馬らは同意したという。これが大逆の謀議として認定されています。これに対して、清馬は、予審取調べの当時から、宮城に追って大逆を犯そうなどという話は聞いていないといっていました。秋田監獄に収容された後も、当時の司法大臣尾崎行雄宛に上申書を出して、無実を訴えました。清馬は、その後も、再審請求をしようとしたが果たせず、結局、25年間秋田刑務所で獄中生活を過ごした後、1961年に至って、やっと再審請求を果たしたのでした。
 ところが、1965年12月1日、東京高裁第一刑事部長谷川裁判長は、清馬らの再審請求を棄却しました。弁護人らは、この決定にあたって、裁判長は他の裁判官と「合議」した形跡が認められないことを問題にして、直ちに最高裁判所に特別抗告を行うとともに、東京高裁長谷川裁判長を衆議院の裁判官訴追委員会に訴追請求しました。
 1967年7月5日、最高裁大法廷(裁判長裁判官横田正俊、裁判官入江俊郎、奥野健一、草鹿浅之介、長部謹吾、城戸芳彦、石田和外、柏原語六、田中二郎、松田二郎、岩田誠、色川幸太郎、大隅健一郎、松本正雄)は、特別抗告を棄却し、同年12月20日、国会の訴追委員会も長谷川裁判官を訴追しないことを決定しました。
 坂本清馬氏は、1975(昭和50)年1月15日、高知県中村市の病院で気道閉塞のため、89歳で死去しました。これによって、大逆事件の被告人だった人はいなくなり、遺族・関係者もほとんどいなくなったため、2度目の再審請求への動きが見られないままの状態が、最近まで続きました。

大逆事件見直しの動き

 裁判所への働きかけはとん挫したような形でしたが、大逆事件見直しの動きは脈々と続いていました。もともと、大逆事件は社会主義弾圧のために針小棒大に作り上げられたもので、幸徳秋水にしてから、実際に天皇に危害を加えようと思っていたわけではないことは、歴史的には、また世界的にも、自明の事実として認められているところです。
 第1次再審請求にあたっても、関係者や著名人の著作物や、大逆事件有罪に対する世界の反応などを証拠として提出し、大逆事件がでっち上げられたものであることを証明しようとしました。しかし、裁判所は、そうした資料は単なる学術的な評価であって、裁判における事実認定には大きな意味を持たないとしました。
 このような裁判所の評価に対して、1960(昭和35)年に結成された「大逆事件の真実を明らかにする会」や昨年(2011年)に結成された「大逆事件再審検討会」などの民間団体では、大逆事件そのものが事実として存在したのか、という疑問を法的な議論にも乗せることができるものとしようと、研究を重ねてきています。
 また、地方自治体や宗教団体では、復権を認めたり、顕彰決議をするなどして、大逆事件で死刑になった人たちの名誉を回復する措置を行っています。たとえば、曹洞宗の僧侶であった内山愚堂については、1993(平成5)年に曹洞宗は復権を認めましたし、1996(平成8)年には真宗大谷派僧侶高木顕明と臨済宗妙心寺派僧侶峯尾節堂が復権を認められています。
 地方自治体の動きとしては、幸徳秋水の故郷である中村市議会は、2000(平成12)年に幸徳秋水顕彰決議を採択し、翌2001年には、大石誠之助ら6名の出身地である新宮市議会は、大逆事件犠牲者6名の名誉回復と顕彰決議を採択しています。
 こうした動きの中で、法律の世界だけが馬耳東風を決め込んでいいのでしょうか。

<次回につづく>
 
【村井敏邦さんプロフィール】
一橋大学法学部長、龍谷大学法科大学院教授、大阪学院大学法科大学院教授を経て、現在一橋大学名誉教授。法学館憲法研究所客員研究員。