布施辰治から弁護士のあり方を考える(1)  
2010年10月11日
辛昌錫さん
 

―――布施辰治(1880〜1953年)という弁護士を描いたドキュメンタリー映画ができました。辛さんは実際に布施辰治の弁護も受け、そのことを映画の中でも語っていますが、それは弁護士のあり方についての問題提起にもなっています。
まずは、朝鮮人のどぶろく密造事件のことから紹介してください。
(辛さん)
戦後、少なくない朝鮮人は、祖国に帰ることができない状況の中で、どぶろくを作り生計をたてていました。当時は農家がどぶろくを作ることは当たり前でしたが、朝鮮人たちだけが検挙されたのです。1949年、この裁判を布施先生が担当することになりました。北大1年生の私は朝鮮人連盟秋田県本部に命じられ、布施先生のかばん持ちをつとめることになりました。
法廷での布施先生の弁論に朝鮮人たちは地獄で神に出会ったほどの感激を覚えました。「朝鮮人が人間か! イワシが魚か」と、朝鮮人たちが蔑まれていた時期のことです。布施先生は、日本の労働者は朝鮮人が作るどぶろくによって明日の力を生み出す、といって被告をかばい、朝鮮人を検挙することの不当性を高らかに訴えたのです。こんな日本人がいるのかと仰天したのです。

―――辛さん自身も布施辰治の弁護を受けました。その時のこともお聞かせください。
(辛さん)
1950年6月25日朝鮮戦争が勃発。その時、札幌から派遣された私は、「目の青いやからの手先をさせられている石川島重工の労働者諸君! 朝鮮の同志たちを殺すための巡洋艦を造るな!」という檄文を工場正門掲示板に掲示し、占領目的違反で逮捕されました。その時に面会を受けたのが布施先生でした。当時アメリカの軍事裁判に回された朝鮮人は韓国の李承晩政権に引き渡され、それは即、死を意味しました。そこで私は「自分の足で出るか。死体で搬出されるか」と。水一滴をも飲まないハンストを敢行して三日三晩、そこへ面会に来た布施先生は「命を落として戦えるか! 飯を食いなさい!」と説かれました。その時の布施先生の言葉に、大館地裁法廷がダブり、ハンストをやめました。
私はこのあと、数年の間に数度の政治事件で他の弁護士の弁護を受ける機会があるのですが、布施先生の弁護は他とははっきりと違うのです。被告もみずからと同じ人として同列に扱ってくれる感じだったのです。

―――辛さんから見て、布施辰治の弁護にはどのような特長があるのですか。
(辛さん)
布施先生は検察官などの論理の矛盾点を暴き、それをズバッと突きました。それは布施辰治という弁護士に備わった特殊才能で、私が思うに、それは多くの弁護士の中で群を抜いていました。
たとえば、秋田でのどぶろく密造事件での弁護です。朝鮮人たちを捜索した警官に対する証人尋問で、「君は武装して捜索に向かったのか」と問い、証人から「武装して・・・とはどういうことですか?」と反問されると、布施先生は武装の定義を厳密に述べ、証人をして「それならば武装していました」と言わしめ、そして「明らかに武装していて、朝鮮人を暴徒扱いであろう!」と追及したのでした。
また、「酒を押収したというが、それはどういう質で、どういう分量であったのか。酒である証拠は何か。科学上の処方をもって、きちんとアルコールを検出したのか。容積はどのように量ったのか。一樽というだけでは、あまりにもでたらめじゃないか」と詰め寄るのでした。

次号に続く
 
【辛昌錫(シン・チャンスク)さんのプロフィール】
1930年、在日朝鮮人二世として東京で生まれる。
1981年から、祖国の科学的発展を願う立場から祖国朝鮮に自然科学誌等を送る「一冊の会」を立ち上げるなどを展開しながら、イネの自然耕などの経営コンサルタントに従事している。