裁判員法の成立経緯を振り返って  
2009年8月24日
元司法制度改革推進本部事務局次長・弁護士
古口 章 さん
  1 始まった裁判員裁判

本年5月「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」(以下「裁判員法」という)が施行され、8月上旬には裁判員裁判による公判の第1号が東京地裁で、第2号がさいたま地裁で実施された。それぞれ、呼出を受けた裁判員候補の多くが出頭し、選任された裁判員や補充裁判員の方々の真摯で意欲的な参加が得ることができ、裁判官も検察官も弁護人も、分かりやすい審理とするための工夫こらし、従前とは様変わりした刑事裁判手続の様子がマスコミにも取り上げられた。
同法を含む司法制度改革関連法の立案作業等を担った司法制度改革推進本部事務局に席を置いた者としては、よくぞここまで来たものだと思う。
2 綱渡りの中での裁判員法の成立

振り返れば、推進本部事務局に勤務しはじめた当初は、期待と不安が入り乱れ、先を見通すことは難しかった。裁判員制度については司法制度審議会意見書がかなり具体的な制度構想を示していた。しかし弁護士会内には「果たして、被疑者の公的弁護制度や裁判員制度など、現在の情勢や力関係のもとで、実現できるのか?」「できても、ごくごくシャビーなものになってしまうのではないか。」などの悲観論もあった。
また、この「今週の発言」欄で大出さんや伊藤さんが指摘しているように、審議会等の議論においては刑事裁判の現状に対する評価の点で深刻な対立があり、現状評価はさておいた上で制度を設計しなければならなかった。一方の極にはいわゆる「精密司法」肯定論があり、他方には「身体拘束の運用改善」「捜査の可視化の徹底」「証拠能力についての厳格な運用」などを目指す適正手続徹底論があった。立案作業はこのどちらにもくみせず、刑事裁判の現状批判は避けつつ「直接主義を徹底し分かりやすい裁判を実現する」ことを軸とした制度設計とする他なかった。
そのため制度導入の目的は「司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上」といった抽象的なものとならざるを得ず、検討会などでも、制度導入の意義めぐる議論は不十分なまま、裁判体の構成員数をめぐり両極の論が拮抗し、互いに譲る気配を見せず、平成15年暮れ以降はチキンゲームの様相を呈し、そのまま時間をかけた論議を続ければ、様々な異論や慎重論が出され、結局、制度は流産することとなりかねない事態ともなった。
最後にその危機を救い平成16年通常国会で裁判員法を成立させることができたのは、法科大学院関連法、弁護士制度改革関連法、裁判迅速化法、労働審判法、総合法律支援法、行政事件訴訟法改正など、押し進めてきた司法制度改革の流れを、そこで反対して中途で頓挫させる訳にはいかないという情況そのものであった。
そして、そうした一連の司法制度改革を可能ならしめた要因としては、(1)財界、政府与党、法曹三者、連合その他の諸団体などの間に、それぞれ微妙に異なる思惑がありつつも、稀有とも思われる協調が保たれていたこと、(2)課題を期限つきで明確にした審議会意見書、推進法、推進計画が改革推進のバイブルとなったこと、(3)完璧なものを求めず、期限内に成立させることが出来る最良の法案を確実に通してきたこと、(4)布石をうち、改革の実績を積み上げ、外堀、内堀を埋め、改革の大きな流れを創ることができたこと、(5)推進本部事務局、顧問会議、検討会などにおいて、偶然の幸運といえるほど「人を得た」こと、(6)日弁連が主体的、積極的にコミットし、よい意味で官民の協働作業ができたことなどが考えられる。
3 制度が動き始めたことの意味

このように綱渡りの中で導入されることとなった裁判員制度は、「直接主義を徹底し分かりやすい裁判を実現する」ことを主な内容とするものであり、直ちに「身体拘束の運用改善」「捜査の可視化の徹底」「証拠能力についての厳格な運用」などに結びつくものではない。また、これまでの議論や裁判員法の規定では、国民が刑事裁判に参加することの真の意義を深く捉えているとは言い難い。
さらに、新制度が、拙速な手続に陥るなど、被疑者被告人の防御権をないがしろにすることとならないよう、今後とも監視と吟味が必要なことは言うまでもない。
しかしながら、「国民が刑事裁判に参加し」「直接主義を徹底し分かりやすい裁判を実現する」ことは、実は、刑事裁判がかかえる様々な問題を改善・変革していく上で重要な意味をもっている。「分かりやすい裁判」は、裁判官、検察官、弁護人に対し、これまでの実務の馴れを排して裁判員に理解してもらえる訴訟活動に転換することを求める。その中で、「疑わしきは被告人の利益に」の原則の下に国民にも被告人にも理解し納得できる適正な事実認定の実践例が積み上げられていく。国民の目から見たときは、常識的に見て開示すべき証拠は開示されるようなるであろうし、人質司法といわれるようなアンフェアーな運用は納得を得られないであろうし、取調べの全過程の録音・録画に反対する者は殆どいないこととなるはずである。また伝聞法則、自白法則、違法収集証拠排除法則などは、職業裁判官ではなく裁判員がそれら証拠に触れるときの誤判のリスクの大きさを考えれば、より厳格に運用し証拠から排除していくべきこととなろう。これらは、裁判員裁判の実践を積み上げる中で、裁判員はじめ国民各層、法曹三者、刑事法研究者など全ての関係者が真摯な模索を続けることによって実現させていくべきである。そうした積み上げの中でこそ、「国民が刑事裁判に参加」することの意義も、より深められ広く共有化することが可能となる。
なお、まだ始まったばかりの段階であるのに、既に「身体拘束」については実務の運用の中で一定の改善がなされつつあるように思われること、「捜査の可視化」についても、弁護士会の取組が進み、民主党のマニュフェストに盛り込まれるなど、これを求める動きが大きく広がりつつあることは、大きな前進である。かつて、立案作業を行っていた時期には、このような急速な展開は予想できなかった。このことは、今後の改革が我々が予測している以上にダイナミックに進展する可能性をも示唆しているように思われる。
裁判員裁判の始動についてのマスコミ報道の多くは、裁判が「分かり易くなった」ことを強調し、上記のような今後の課題に触れるものは多くはなかった。しかし、裁判が「分かりやすくなること」を強調した報道の意義は決して小さくない。私達は、上記のとおり「国民が刑事裁判に参加し」「直接主義を徹底し分かりやすい裁判を実現する」こと自体の重要な意味をあらためて再確認しておくべきものと思われる。
 
【古口章さんプロフィール】
弁護士。静岡大学法科大学院教授。
日本弁護士連合会法科大学院センター委員長。
2002年4月から2004年11月まで司法制度改革推進本部事務局次長を務める。