【村井敏邦の刑事事件・裁判考(72)】
ピースボートで平和について考えた
 
2017年12月1日
村井敏邦さん(一橋大学名誉教授)

 8月13日に横浜大桟橋を出航して、104日間。北半球を一周して、11月24日、再び大桟橋に到着しました。
 104日間の船旅というのは、初体験です。退屈するのではないかと考えて、たまった仕事をこの際に片付けることと、読んでおきたい厚い本、ハーモニカ、絵の道具などをもって、夫婦二人で乗り込みました。
 実際には、退屈するどころか、毎日、さまざまなイベントがあり、まとまって仕事をする時間はとれずじまいでした。
 どんなことで時間がふさがれたのか、その点に入る前に、ピースボートとは何かについて、ピースボートのホームページから抜き出して、紹介しておきましょう。

ピースボートとは?
 『「みんなが主役で船を出す」を合い言葉に、好奇心と行動力いっぱいの老若男女が世界各地を訪れ、様々な国や地域に暮らす人々と直接顔の見える交流を行ってきました。ピースボートが目指すもの、それは船旅を通じて、国と国との利害関係とはちがった草の根のつながりを創り、地球市民の一人として、平和の文化を築いていくことです。

 そんな地球市民のネットワークづくりに必要な人との「出会いの場」や、世界が抱えるグローバルな問題を現地の人たちと共に考える「学ぶ場」、そしてそれを踏まえて実際に一人一人が「行動できる場」をピースボートは提供してきました。』

 「日本と世界をつなぐ架け橋」としての役割を果たすことが、ピースボートでの地球一周の船旅の意味だということです。

国際NGOとしての取り組み
 『ピースボートはこれまで築いてきた世界中のネットワークを活かし、様々な国際協力活動や提言活動を行ってきました。
貧困や震災で苦しむ地域を訪れ日本からの支援物資を届けるプロジェクトや、カンボジアの地雷廃絶のためのキャンペーン、自然破壊が進むガラパゴス諸島での植林ボランティア、ヒロシマ・ナガサキの被爆者と航海をしながら世界中で平和の大切さを伝える活動など、活動分野は多岐にわたります。
 こうした活動を続ける中、2002年には国連の経済社会理事会(ECOSOC)との特別協議資格を持つNGOとして認定され、現在も平和教育や紛争予防、軍縮、貧困対策などの分野で活動しています。』

ピースボートの活動はどうして始まったか
 『ピースボートの記念すべき初航海は、1983年9月2日から横浜を出航し小笠原、グアム、サイパンといったアジアの国々をまわるクルーズでした。』

 この航海が生まれるきっかけは、その当時国際問題化した「教科書問題」だということです。

 『これは、日本の歴史教科書検定のさい、日本のアジアへの軍事侵略が「進出」と書き換えられるという報道に対して、アジアの人々が激しく抗議したというものです。このとき今まで自分たちが学んできた歴史は本当のことなのだろうか?という疑問と、実際はどうだったのだろうかという関心をもった若者たちが、「じゃあ現地に行って自分たちの目で確かめてみよう」と考えたのが出発点でした。』

 こうした若者の疑問と関心がピースボートの活動の始まりであり、現在まで続く原動力であるようです。
 若者の活動として始まったものであり、私も、ピースボートは若者のものだと思っていました。乗船者も若者が中心だろうと思っていました。ところが、実際には、乗船者の大半は年配者です。それも、定年退職後の人たちが多く、今回の航海での最高齢は95歳でした。
 この船旅では、平和とは何かを考えさせられました。語りたいことは数々ありますが、ここでは、二つの話題を取り上げます。ピースボートのノーベル平和賞受賞と、キューバをはじめ、中米諸国の平和への闘いについてです。

ノーベル平和賞「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」に
 アイスランドでオーロラ鑑賞ができるかと騒いでいる10月6日、ピースボートも加わっている「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」に今年のノーベル平和賞が授与されました。数日後には、そのことを伝える新聞記事が船内の掲示板に貼られて、船内の皆に知らされました。
 ピースボートの国際NGOとしての活動の一つに、広島・長崎の被爆者が世界をめぐり、その体験を証言する「おりづるプロジェクト」があります。95回クルーズでも長崎の被爆者木村徳子さんが乗船して、船内でも、また、エディンバラ(スコットランド)、コリント(ニカラグア)、レイキャビク(アイスランド)、ニューヨーク(アメリカ合衆国)、ハバナ(キューバ)、コスメル(メキシコ)などの寄港地でも、被爆体験を証言する活動をしていました。
 このような活動も、ICANがノベール平和賞を受賞するにあたって、評価された要素の一つでしょう。
 ピースボート乗船中にノーベル平和賞受賞の報を聞くという経験は、感動的でした。

キューバ、ニカラグアの米国からの支配への抵抗
 今回のクルーズの目玉の一つは、キューバへの寄港です。私もキューバへの寄稿を最大の楽しみにしていました。オバマ前大統領の時代に、キューバとアメリカの間の緊張関係が解消され、キューバへの寄港が自由になりました。その最初の機会が今回のクルーズでした。しかし、その後、トランプ大統領になり、キューバとの関係は再び緊張状態となったため、寄港にも障害があるかと、大変に気をもみましたが、幸い、問題もなく、ハバナ寄港が実現しました。
 ハバナでは、革命記念館や革命広場に行き、カストロやゲバラを偲んで、キューバ国民のアメリカの支配への抵抗の力を実感しました。
 アメリカの経済封鎖が長く続き、経済的にはかなり大変な状況ですが、キューバ国民は底抜けに陽気です。おそらく、この陽気さが抵抗の原動力だったのでしょう。
 キューバ革命に影響を受けたのが、ニカラグアの独立運動です。ニカラグアでは、アメリカからの独立を主張して、ゲリラ活動を指導していたサンディーノが、1934年に暗殺された後、その遺志を継ぐ人たちがサンディニスタ民族解放戦線を組織し、独立運動を展開し、紆余曲折がありながら、2006年の大統領選挙で、現大統領オルテガが選ばれて、アメリカからの最終的な独立を獲得しました。
 私は、サンディニスタとの交流を含む、ニカラグア独立の戦跡ツアーに参加して、ニカラグア独立の歴史を知り、また、独立後の課題などについて考える機会を得ました。
 この二つの国の訪問によって、平和を維持するのは、武力ではなく、経済、教育、医療であることを教えられました。
 キューバの人たちもニカラグアの人たちも、平和維持への日本の貢献に大きな期待を寄せています。日本に期待されていることは、自衛隊や武器の派遣・供給ではありません。「日本は、教育や医療で大きな貢献ができます。私たちの最も必要とするのは、教育や医療です。教育水準や医療水準が高い日本には、それを活用して、私たちを援助してください。それが平和を維持する最高の方法です。」アメリカの経済封鎖や武力による圧力に抗してきた中米の人たちは、こう言っていました。平和とは、戦争のない状態を示す消極的平和を超えて、すべての人が幸せと感じる社会であることを示す積極的平和のことであると知らされました。

 
【村井敏邦さんプロフィール】
一橋大学法学部長、龍谷大学法科大学院教授、大阪学院大学法科大学院教授を経て、現在一橋大学名誉教授。法学館憲法研究所客員研究員。