【村井敏邦の刑事事件・裁判考(71)】
共謀罪を支える議論とその淵源
 
2017年8月17日
村井敏邦さん(一橋大学名誉教授)

 前回は、共謀罪法を支える日本の刑法理論について論じました。今回は、日本における共謀罪法の歴史をみてみましょう。

日本における最初の共謀罪規定
 英米に起源のある「conspiracy」(共謀)の日本への上陸は、爆発物取締罰則が最初です。爆発物取締罰則は、過激化する自由民権運動に対処するために、イギリスの1883年爆発物法(Explosive Substances Act 1883)に摸して、明治17年太政官布告第32号として制定されました。その第4条は、「第1条ノ罪ヲ犯サントシテ脅迫教唆煽動ニ止ル者及ヒ共謀ニ止ル者ハ3年以上10年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」として、爆発物使用を共謀した者を処罰することにしています。
 また、第8条では、「第1条乃至第5条ノ犯罪アルコトヲ認知シタル時ハ直ニ警察官吏若クハ危害ヲ被ムラントスル人ニ告知ス可シ」として、これに違反した者を5年以下の懲役または禁錮に処すとしています。
 さらに、第11条では、「第1条ニ記載シタル犯罪ノ予備陰謀ヲ為シタル者ト雖モ未タ其事ヲ行ハサル前ニ於テ官ニ自首シ因テ危害ヲ為スニ至ラサル時ハ其刑ヲ免除ス」として、共謀者からの密告を奨励しています。
 このように、爆破物の製造等に携わった者だけではなく、その事実を知った者にも罰則付きで報告義務を課しています。

爆発物取締罰則制定の契機となった事件「加波山事件」
 爆発物取締罰則制定の契機になった事件は、加波山事件です。この事件は、1884(明治17)年9月、政治結社自由党急進派の若い人たち16人が、自由民権運動を弾圧した栃木県令・三島通庸(みちつね)らの暗殺を企てて蜂起した事件です。爆発物を製造してこれをもって三島らを殺害しようとしたのですが、その機会がなく、計画を官憲に察知されて加波山(茨城県・桜川市、石岡市)に立てこもったことから、「加波山事件」と命名されました。爆発物は、軍資金調達のために押し入った質屋から逃走する際に警察官らに投げています。
 この事件では、爆発物が製造され、実際に使用もされていますが、目的とした三島通庸らの殺害については、未遂段階にも至っていません。それというのも、最初から三島が自由党をつぶすとして、その党員の動きを監視していたためです。
 爆発物取締罰則は、現在まで生きており、適用例もいくつかありますが、共謀罪の適用例はありません。
 なお、この事件の関係者は、強盗罪で死刑に処せられた者が多く、被告人たちにとっては、自分たちは政治犯として処罰されるべきなのに、強盗犯としての処罰はまったく意に沿わないとして悲憤慷慨したとのことです。また、処刑された人の一人が刑の執行が終了した後にも、息をしており、もし蘇生術を施せば一命を取り戻す可能性があったので、どうするかを受刑者の家族に尋ねたところ、家族としては死亡を望んだということで、蘇生術を施さず、そのままに放置して死亡させたというエピソードもあったようです。

爆発物取締罰則の淵源:イギリスの爆発物法
 爆発物取締罰則の元となったイギリスの1883年爆発物法(Explosive Substances Act 1883)は、1883年10月30日、フェニアン団というアイルランド共和国の樹立を目指す集団によって行われたロンドンの地下鉄爆破事件の翌日に議会に提出され、制定されました。この法律第3条は、「爆発物を使用して爆発させて人の生命に危害を加えようと共謀した者を、20年以下の懲役または2年以下の拘禁刑に処するとしていました。その後、1977年Criminal Law Actによって、刑は終身刑に引き上げられました。
 この法律の共謀罪は、しばしば適用されています。

共謀罪類似の罪(1)大逆罪
 明治13年制定の旧刑法、明治40年制定の現行刑法には、大逆罪という規定がありました。天皇等に対して危害を加え、または加えようとした者は、死刑に処するとするものです。この規定は、戦後削除されましたが、適用例が4例あります。この4例のうち、大逆事件と朴烈事件のいずれも実際に危害を加えたことをもって処罰されたのではなく、危害を加えることを陰謀したとして死刑が適用されています。
 とくに、大逆事件では、26人が起訴され、全員に死刑が求刑され、24名にいったんは死刑が宣告され、12名に対しては、恩赦で無期懲役に減刑されましたが、12名は、死刑宣告後、死刑が執行されました。
 起訴された26人のうち、何人かは、爆発物の製造・実験にかかわり、また、天皇を殺害する計画に関与したと認められる者がいたようですが、ほとんどは、そのような計画・陰謀に無縁な人たちです。また、計画に関与したといっても、具体的なものとは言いがたく、天皇殺害の陰謀というには、抽象的なものでした。
 大逆罪は、共謀罪の究極の形態ともいうべきものです。

共謀罪類似の罪(2)治安維持法
 治安維持法は、1925年(大正14年)に普通選挙法と同時に制定されました。そのため、「飴と鞭の政策」とも言われます。この時の法の規定では「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」となっていました。ところが、その3年後の1928年(昭和3年)に改正されて、国体変革と私有財産制度否認を分け、前者については、死刑を含む罰則にしました。また、「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」として、いわゆる「目的遂行行為」を結社に実際に加入した者と同等の処罰をもって罰することとしました。この「目的遂行行為」が拡大解釈されて、社会主義思想のみならず、自由主義思想や民主主義思想などを弾圧する手段として、濫用されたことは、周知の事実です。
 さらに、1941年の改正によって、組織を準備する行為をも処罰することになりました。
 政府は、共謀罪法を治安維持法になぞらえることを嫌がりますが、両者は構造的によく似ているのです。

戦後の共謀罪規定
 戦後も共謀を処罰する個別法は、いくつかあります。自衛隊法や国家公務員法にも、罰則に共謀を処罰する規定を含んでいます。最近の法律では、特定秘密保護法が、秘密の漏えいや取得の共謀を処罰しています。
 これらの個別法における共謀罪処罰も問題です。とくに、特定秘密保護法に規定されている秘密漏えい・取得の共謀処罰は、そもそも秘密漏えい・取得の行為そのもののあいまい性に加えて、それらの行為について相談しただけで処罰するというのは、国民の知る権利に対する大変な脅威となります。
 しかし、共謀罪法は、これらの個別法での共謀処罰とは、質的な違いがあります。当初の提案では、長期4年以上の罪のすべてについて共謀を処罰するというものでした。最終的な対象犯罪は277条になりました。これによって、対象犯罪を重大犯罪に絞って、一般的に処罰するというのではなくなったと、政府は強弁していますが、本当にそうでしょうか。
 277条というのは、刑法の全条文数264条よりも多い数値です。刑法の犯罪規定は、77条以下ですから、200か条以上になります。個別的に必要やむを得ず処罰するというものではなく、総論的処罰に当たるといってよいものです。
 このような点からしても、今回の共謀罪法には、刑法の基本を踏みにじるものがあると評価せざるを得ません。

 
【村井敏邦さんプロフィール】
一橋大学法学部長、龍谷大学法科大学院教授、大阪学院大学法科大学院教授を経て、現在一橋大学名誉教授。法学館憲法研究所客員研究員。