【村井敏邦の刑事事件・裁判考(68)】
被疑者・被告人の自殺、事故死
 
2017年5月29日
村井敏邦さん(一橋大学名誉教授)

埼玉県での被疑者の自殺例

 留置場や拘置所内での自殺事故が後を絶ちません。とくに、被疑者段階での自殺がかなりあります。
 以下に引用したのは、今年(2017年)5月21日付けの埼玉新聞の記事です。

「留置場で首つり、勾留の男重体…自殺か 巡回の署員が発見/川口署
 川口署は21日、公務執行妨害容疑で現行犯逮捕した川口市の自営業の男(43)が留置場で首をつったと発表した。男は意識不明の重体で、自殺を図ったとみられる。
 同署によると、20日午後11時5分ごろ、男が着ていたTシャツを使って首をつっているのを巡回中の署員が発見した。男は心臓マッサージなどの救命措置を施され、救急搬送された。
 男は今月12日、トラブルの通報を受けて駆け付けた同署員に対し、唾を吐いたとして逮捕、勾留されていた。これまで自殺をほのめかすような言動は見受けられず、同署で動機などを調べている。
 同署の関根英勝副署長は『自殺未遂を未然に防止できなかったことは残念に思う。今後、このような事案がないよう再発防止に努める』とコメントした。」

 トラブルの内容がわかりませんが、警察官は通報を受けて駆けつけ、職務質問をしようとしたのでしょう。その警察官に唾を吐きかけるというのは、一応、公務執行妨害罪の構成要件に該当します。この罪で逮捕するというのは、これも一応、適法なのでしょう。しかし、この程度で勾留までする必要があったのか、少々疑問のあるところです。
 そうした逮捕・勾留の適法性は別にして、被疑者段階での自殺や自殺企図がしばしば発見されるというのは、どうしてでしょう。また、そうした自殺に対する防止策はないのでしょうか。

痴漢を疑われた人の死亡事故

 上記の自殺事故と共通する面のある現象が、このところ目立って起きています。それは、電車内で痴漢を疑われた男性が、駅に電車が着いた途端に、ホームから電車軌道に飛び降りて、走って逃げるところをやってきた電車に轢かれるという事故です。朝日新聞5月16日号に、次の記事が出ていました。

「15日午後8時15分ごろ、横浜市青葉区の東急田園都市線青葉台駅の下りホームで、電車内の痴漢行為を指摘された男性がホームから線路に飛び降りて電車にはねられ、死亡した。男性は30代とみられるという。
 東急電鉄や神奈川県警によると、ホーム上に設置されたインターホンを通じ、『痴漢ともめている』と駅員に連絡があった。男性は電車内で痴漢をしたと指摘され、被害を訴えた女性とともに同駅で電車から降りていた。駆け付けた駅員と男性が話し合っている最中に男性が線路に飛び降りたという。
 この事故で、田園都市線はあざみ野―長津田駅間で約2時間、上下線の運転を見合わせた。」

 線路上に飛び降りるというのは、自殺も同然の行為です。痴漢と疑われただけで、どうして死の危険をも冒して逃げなければならないのでしょう。そこには、上記の自殺事件と同様、罪を犯したと疑われると、その疑いを晴らすのが大変だという事情があります。とくに、痴漢事件で犯人という容疑をかけられたということが家族や会社に知れた場合、生きていけないという気持ちに陥るのでしょう。
 「無罪推定」というのが、刑事法の大原則ですが、実際の社会では、疑いをもたれただけで犯人扱いになるという思いがあります。そこで、疑いを晴らす行動をとるよりも、とりあえず逃げるという行動に出てしまうのでしょう。

刑事施設内での自殺への対策

 私が視察委員をしていた拘置所でも、自殺事故がありました。朝、職員が見回りに行ったら、布団の中でシャツを首に巻いて死亡していたというものです。自分で自分の首を絞めて死ぬということは難しいといいますが、この時は、首に巻いたシャツの袖を丸めた雑誌に巻きつけて、それをスクリューのようにねじってしめたようです。
 刑務所内の自殺の方法については、被収容者たちの口から口へ伝えられているということが、刑務所の実態を書いた書物に書かれていました。上記の拘置所での方法も書いてありました。
 自殺の道具になるようなものは、部屋の中に置かないようにしているようですが、自殺をしようとする人は、いろいろと工夫するようです。
 刑事施設内の道具を制限するということでは、限度があるでしょう。自殺をしようと決意した場合には、どのような不自由な場でも方法を見つけるものでしょう。
 自殺を防止する最もいい方法は、自殺するという気持ちにならないようにすることでしょう。
 受刑者の自殺事故よりも、被疑者の自殺事故のほうが圧倒的に多いのです。埼玉の事例について、詳しいことはわかりませんが、まさか逮捕・勾留までされるというのは、本人にとって思いのほかのことだったのではないでしょうか。そのため、絶望的になったのかもしれません。
 普通の社会生活空間から突然閉鎖空間に投げ込まれた場合、多くの人がパニック状態になります。放心状態になる場合もあるでしょう。絶望的になることもあるでしょう。それが高じれば、いわゆる拘禁症状を呈するようになります。
 外見からは、自殺の兆候らしきものはなくても、内心は絶望的な状態で、発作的に自殺を考えるということはありえます。
 その上、上記で触れたように、人々の心の中では、逮捕されればお仕舞いだという気持ちがあります。拘置の精神的圧迫に加えて、逮捕されたということで打ちのめされたような気持ちが沸いてくるのでしょう。絶望感はいっそう深まります。
 このような心理状態に陥った人が死ぬしかないと思うのも、無理からぬところがあります。

自殺ヘルプライン

 では、どうすれば、このような人の自殺を防止することができるのでしょうか。
英米では、自殺防止ヘルプラインがあって、どこからでも電話をすれば、相談にのってくれ、緊急の場合には、駆けつけてきてくれるというプログラムがあります。イギリスで私が訪問した刑務所では、被収容者の部屋からもかけられる「自殺ヘルプライン」が設置されていました。
 夜中でもいつでも通じる電話回線があって、絶望的な状態にあると悩んでいる人の悩みに耳を傾けてくれます。だれか他人が話を聞いてくれるというだけで、気持ちが軽くなり、それまで絶望的だと思っていた人も、思いとどまる可能性はあります。これによって、閉鎖された空間での、一人ぼっちの自殺は防げる可能性は高いでしょう。
 イギリスでのこうした試みは、刑事施設内での自殺が相次いだところから始められました。日本でも、施設内での自殺対策が必要な事態ですので、こうした試みは有効ではないでしょうか。

言い分を聞いてくれる司法へ

 もう一つは、逮捕されたらお仕舞いだという人々の思いこみを消すことが必要です。警察官や司法関係者は、自分の言い分を聞いてくれないという思いが、死の危険を冒しても逃げるという行動になります。
 「無罪推定」が信じられる状態にすることによって、こうした行動の多くは防げるのではないでしょうか。
 これは、逮捕された被疑者の自殺衝動にストップをかけることにもなるでしょう。その意味で、「被疑者・被告人の言い分にじっくりと耳を傾ける司法」の実現こそ、被疑者・被告人の絶望感を緩和する基本的な方策ではないでしょうか。

 
【村井敏邦さんプロフィール】
一橋大学法学部長、龍谷大学法科大学院教授、大阪学院大学法科大学院教授を経て、現在一橋大学名誉教授。法学館憲法研究所客員研究員。