【村井敏邦の刑事事件・裁判考(59)】
取調べの録音・録画の落とし穴:今市事件判決に見る
 
2016年6月20日
村井敏邦さん(一橋大学名誉教授)

改正刑訴法における取調べの録画について

 改正刑訴法では、取調べの録音・録画が、限定された範囲ですが、実現しました。弁護士会は、全事件、全過程の録音・録画を求めていたのですが、最終的に法律になったのは、検察官による取調べと裁判員裁判事件の警察による取調べの録音・録画です。警察による取調べの録音・録画は、ほんの一部の事件しか実現されないことになったのです。
 さらに、刑訴法改正案の参議院での審議中に出された判決が、録音・録画の落とし穴を明らかにしました。本年4月8日に宇都宮地裁で無期懲役の宣告のあった今市事件判決です。

今市事件判決とは

 2005年に栃木県今市市で発生した小学校1年生の女児が殺害された事件の裁判員裁判で、取調べの録音・録画テープが証拠として提出されました。被告人は、殺人罪での逮捕・勾留の前に、別件の商標法違反の罪で逮捕・起訴されています。殺人罪での取調べは、この別件の商標法違反での起訴後から行われ、その取調べにおいて、被告人は、殺人罪について最初の自白を行っています。被告人は、この最初の自白の際に、取調官から暴行等を受けて、自白を強要されたと主張しました。しかし、法廷で証拠として提出された取調べの録音・録画テープには、この別件起訴後の取調べの状況ははいっていません。
 裁判所は、この点の自白については、取調べ受忍義務がないことに配慮して慎重に行われているということで、任意性を認めました。
 問題の第一は、改正刑訴法下では、どうなるかということです。全事件の取調べの録音・録画を義務付けているならば、別件起訴後の取調べについても、録音・録画が行わるべきだということになりますが、改正刑訴法では、明確になってはいません。

別事件での起訴後勾留を利用した取調べの録音・録画義務について

 起訴後の取調べについては、そもそもが起訴後は公判廷における証拠調べが行われるので、捜査機関による取調べはできないという説と、被告人に取調べ受忍義務はないが、任意である限り、取調べができるという説とがあります。実務は、後者の立場に立っています。今市事件の裁判所も、この立場に立ち、取調べの任意性について判断しています。
 今市事件は、刑訴法改正以前ですから、取調べの録音・録画が義務付けられていません。したがって、取調べの録音・録画がされていなくても、法律違反という問題は生じません。
 ところが、改正刑訴法下では、録音・録画をしなければならないのに、それをしないで取調をした場合には、その結果を記載した調書は証拠として提出できないことになりました。
 そこで、今市事件のような場合に、録音・録画の義務付けられた取調べに入るか否かが問題になるわけです。
 この点について、参議院の審議で問題になった時、法務省の担当官は、被疑者の取調べが問題であるから、別件起訴後の被告人の取調べは改正法の範囲外だと答えています。たしかに、条文には、被疑者の取調べとなっています。ただし、別件起訴後の取調べは、その別件についてのものではなく、まだ逮捕・起訴されていない殺人罪についての取調べなので、「被疑者の取調べ」に入ると考えることができます。
 担当官の回答の中には、起訴の取調べについて受忍義務がないことも理由として挙げられています。しかし、取調べ受忍義務があるか否かは、録音・録画を義務付ける基準ではないでしょう。この点も、法務省の見解には疑問があります。
 日弁連は、法務省の上記の解釈に異議を述べています。解釈上、別件起訴後の取調べも録音・録画の義務があるというのです。
 ところが、参議院の附帯決議には、法務省の解釈を根拠づけるかのような一文が付けられました。
「刑事訴訟法第三百一条の二第四項の規定により被疑者の供述及びその状況を記録しておかなければならない場合以外の場合( 別件逮捕による起訴後における取調べ等逮捕又は勾留されている被疑者以外の者の取調べに係る場合を含む) であっても、取調べ等の録音・録画を、人的・物的負担、関係者のプライバシー等にも留意しつつ、できる限り行うように努めること。」
 衆議院にはなかった下線部分が参議院の附帯決議で付け加えられました。この場合にも、できる限り録音・録画をすべきだというものです。一見いいようですが、下線部分のような取調べの録音・録画は義務ではなく、努力目標とされたわけです。日弁連ではなく、法務省の解釈を基準としていることは明らかです。
 今後の運用においては、このような場合も録音・録画が義務付けられているように解釈すべきですが、立法においては、その点が明確化されなかったという問題は残ります。

自白の信用性を補強するものとして録画画面を利用することの問題

 もう一つの問題は、今市事件では、取調べの録音・録画テープが任意性立証のためだけではなく、信用性立証のために使われたことです。
 今市事件では、客観的証拠としては、状況証拠だけで、しかも、それだけでは被告人の犯人性を立証することはできません。裁判所は、「被告人が犯人としたならば合理的に説明することができない……事実関係が含まれているとまではいえず、(最高裁平成22年4月27日決定・刑集64巻3号233頁参照)、そうすると、客観的事実関係のみから被告人の犯人性を認定することはできないというべきである」としました。その上で、自白の任意性、信用性を肯定し、有罪判断をしています。
 自白の信用性判断の過程では、取調べ状況の録音・録画の結果がしばしば引かれて、信用性が肯定されています。裁判員の判決後のインタヴューでも、「録音・録画ビデオを見なければ、有罪には達しなかっただろう」という発言が行われています。録音・録画ビデオが、裁判員の有罪の心証に決定的役割を果たしたようです。
 しかし、任意性立証のために提出された録音・録画テープを、信用性の補助証拠として用いることはいいのでしょうか。今市事件において裁判員に与えた影響から、検察官は今後、録音・録画テープを有罪立証の証拠として活用してくることが、容易に予想されます。
 録音・録画テープの証拠としての問題性は、それを見る者に書いたもの以上の迫真性をもって訴えることです。それだけに、有罪立証のための証拠とするには、予断・偏見を与えやすく、その点で、証拠能力(法律的関連性)に疑問があります。
 改正法は、あくまでも任意性立証のための手段として、取調べ状況の録音・録画テープの証拠性を認めています。有罪立証のための証拠とすることは、今回の改正法の射程距離にはいっていないことを注意する必要があるでしょう。

 
【村井敏邦さんプロフィール】
一橋大学法学部長、龍谷大学法科大学院教授、大阪学院大学法科大学院教授を経て、現在一橋大学名誉教授。法学館憲法研究所客員研究員。