なぜ最高裁は、袴田さんを死刑にしたのか?  
2014年9月8日
大出良知さん(東京経済大学現代法学部教授)
 袴田事件の再審開始決定があって、半年が過ぎようとしています。速やかな審理を期待するのみですが、最近、この袴田事件に関わって、極めて重要な一文に接しました。木谷明「渡部保夫さんと袴田事件」季刊刑事弁護79号91頁です。木谷明氏については、周防正行監督の映画「それでもボクはやってない」をバックアップされたということで、専門家以外でも、ご存じの方が多いのではないかと思います。長年、刑事裁判官として、刑事裁判の原則に忠実な事実認定に腐心され、「絶望的」といわれた刑事裁判をめぐる環境の中でも、群を抜いて多い30件以上の無罪判決に関与・確定させられたということです。その詳細は、昨年末に上梓された木谷明『「無罪」を見抜く−裁判官・木谷明の生き方』(岩波書店)をお読みいただきたいと思います。
 ここでご紹介したい一文は、ご自身の関わった裁判のことではなかったかもしれませんが、その本の中では触れられていない内容であり、今回書かれることにも「さんざん迷った」ということです。しかし、「袴田事件に関する静岡地裁の画期的・衝撃的な決定に遭遇した」ことで、「『書くべきだ』という決断に達し」たということです。その理由は、「この歴史的事実を知る数少ない(おそらくは唯一の)証人として、事実を後世に語り継ぐ義務があると考えた」といわれます。
 それは、袴田事件の死刑判決を容認した最高裁判決の担当調査官のことです。その調査官が、生前、最高裁調査官を経て、札幌高裁裁判長を最後に裁判官を退官し、北海道大学教授、札幌学院大学教授として冤罪問題に造詣の深い専門家として多くの問題提起をされてきた渡部保夫氏だったということです。木谷氏も、「『無罪の発見』情熱を傾け、現実にも多くの立派な無罪判決を残した」と紹介している。しかし、その渡部氏が、最高裁調査官として同僚だった木谷氏に、「木谷さん。この事件は有罪ですよ。もしこれが無罪だったら、私は首を差し出します」と言われていたというのです。
 もちろん、木谷氏は「渡部さんを貶めたいからではない」として、「渡部さんが、袴田事件の上告審段階の記録を読んでこのような心証を形成したという、この厳然たる事実こそが、刑事裁判の事実認定の難しさを象徴していると考えるのである」とされている。
 私が、この一文に言及することにしたのには、いくつかの理由があります。まず、第1には、実は、私もこのことを知っていたからです。もちろん、20数年前に渡部氏から直接伺っていました。調査官として事件を担当されたことだけでなく、「首を差し出します」とは言われなかったと記憶していますが、有罪であることは間違いないとの趣旨もです。それは、なにも私だけではなく、私が事務局を担当していた研究会で、袴田事件を研究対象にしたことがあり、会員であった渡部氏も研究会に出席され、仔細には記憶のないものの「衣類5点がある限り、有罪の判断は動かない」という趣旨の発言をされていたからです。ですから、研究会に参加していた多くの刑訴法研究者が、その発言を聴いていました。
 しかし、当時は、まだ、研究者が、裁判所の事実認定について正面から批判することには、消極的な雰囲気が強い時代であり、その場で渡部発言に異を唱えるという発言がなかっただけでなく、私的な研究会での発言であり、その後の他の場面でもなかったと思います。私も同様に、この問題について公に発言するということはしてきませんでした。しかし、私は、袴田事件が最高裁で確定する直前に静岡大学に赴任し、再審段階になって、最高裁が上告審で検討したと同じと考えられる全記録を検討する機会がありました。そして、私は、裁判官ではありませんが、少なくとも、刑事裁判の鉄則に従えば、有罪判決を維持することはに疑問があると言わざるを得ないだろうと考えていました。それが、今回この一文に言及させていただくことにした第2の理由です。確かに、木谷氏の主張されるように、「証拠開示制度の不備」に問題があったことは間違いないにしても、捜査経過や衣類5点の発見経過、第1審での自白調書45通中44通の排除、控訴審でズボンがはけなかった等々といったことを考えれば、後に第1審裁判官であった熊本典道氏が、当時の心証を開示したように「無罪」で然るべきだったと考えられるのです。
 それと、もう1点、木谷氏の発言に触発されて発言しようという気になった理由があります。私は、公には発言してきませんでしたが、親しい何人かのジャーナリストには、上記2点のことを話したことがありました。それを聞いていた1人が、他の取材で、渡部氏に会われた際、ついでに袴田事件のことも伺いたいと申し向けたところ、即座に拒否されたそうですが、その際、渡部氏が一言、「あの判決は立派な方が書かれたものですから」と述べられたというのです。実は、それは、私が死刑判決が維持されることになった理由の1つではないかと推測していたことと合致していました。その人物は、2審の裁判長のことであり、渡部氏は、刑事裁判官としては、そのいわゆる新刑訴派に属した裁判長の人脈に連なる人だと伺ったことがあったからです。
 ということで、あくまでも私の感覚と推測ではありますが、確定前に「無罪」との判断にいたらなかった理由が、証拠開示の問題だけではなかったのではないかとの疑問を払拭できずいるところです。
 
【大出良知さんのプロフィール】
九州大学法科大学院長などを経て、現在東京経済大学現代法学部教授。専攻は刑事訴訟法、司法制度論。
『裁判を変えよう−市民がつくる司法改革』『長沼事件 平賀書簡−35年目の証言、自衛隊違憲判決と司法の危機』など著書多数。