「新時代の刑事司法制度」は何をめざすのか  
2014年9月1日
新屋達之さん(大宮法科大学院教授)
 2014年7月9日、法制審・新時代の刑事司法制度特別部会は、「新たな刑事司法制度の構築についての調査審議の結果(案)」(以下、要綱案と称す)を取りまとめた。要綱案は、8月末現在、法制審総会に係属しており、近日中に答申が出される模様である。
 要綱案においては、裁判員裁判対象事件と検察独自捜査事件における取調べの録音・録画、被疑者国選弁護の全勾留事件への拡大、いわゆるリスト開示などが盛り込まれるが、その一方、通信傍受の拡大や手続の簡易化、司法取引(捜査・公判協力型協議・合意制度、刑事免責)といった捜査・訴追権限の拡大、被害者・証人保護のための措置の強化などを打ち出した。審議段階で問題提起された、室内盗聴(会話傍受)、被告人の証人適格、被告人の虚偽供述の禁止措置などのどぎつい提案が見送られた(もっとも、これらは将来の検討に含みを残している)とはいえ、防御権保障に対して捜査・訴追権限の拡大強化が突出していることは明らかである。
 もともと、特別部会は、いわゆる郵便不正事件やその過程で発生した検察官による証拠改ざん事件、あるいはいくつかの冤罪事件の発覚を契機としたものであった。身体拘束やその間の取調べをいかに適正化ないし規制するかについて関心と期待がもたれ、法制審の部会としてはかなり異例な外部有識者委員が多数任命されたのも、そのことの表われであった。しかし現実には、審議のごく初期の段階から、取調べの適正化・規制よりも捜査・訴追権限の拡大強化に論点がシフトし、「獲得目標」よりも「代償」の方が大きいという今回の結果となった(要綱案で示された制度改変の問題点については、川崎英明・三島聡編『刑事司法改革とは何か』(現代人文社)など参照)。

国家危機管理の手段としての刑事司法制度
 このような「獲得目標」と「代償」の逆転は、しばしば「焼け太り」と表現され、特別部会の審議の中でも、このような批判が現われていた。冤罪事件を契機に捜査・訴追権限の拡大強化を図ろうという点では、刑事手続版ショック・ドクトリンともいえよう。しかし、要綱案に見られる捜査・訴追権限の拡大強化は、単なる代償やバーターにとどまらず、刑事司法制度の権力的再編を図るものであり、刑事手続における危機管理機能の強化という性格を有する。かかる性格のゆえ、要綱案は、集団的自衛権解禁や特定秘密保護法などに見られる近時の軍事大国化の動きを下支えするものであり、軍事大国化を「正犯」にたとえれば、要綱案は、少なくとも「幇助犯」ないし「承継的共犯」とでもいうべき位置付けとなる(詳細については、前記『刑事司法改革とは何か』の小田中論文、法と民主主義490号の斉藤論文や拙稿参照)。
 では、このような共犯関係がなぜ存在するといえるのか。それは1つには、軍事大国化ということは、究極の危機管理国家をめざすということであるためである。軍事大国は、単に強力な軍隊の存在と、その能動的運用のみで成り立つわけでなく、それを可能にする国内基盤の存在が不可欠である。特に、その阻害要因を事前に除去しておくことは不可欠であり、そのために刑事法制と法執行の果たす役割は小さくない。戦前における治安維持法や特高警察の拡大強化、予審廃止と検察権限強化論が軍国主義体制の深まりと共に進んだことは、偶然でない。
 そして、要綱案で構想されている盗聴の拡大や司法取引といった制度は、犯罪の事後処理という本来の刑事司法の役割を超えうるものであり、事前の情報収集や組織の実態把握といった、危機管理的機能を強く持つ。また、このような手法は、伝統的な刑事警察活動(司法警察)というよりも公安警察的活動(行政警察)である。公安警察的な手法が公認・拡大されてゆくことにより、刑事司法制度自体が予防司法化してゆくのである。

憲法規範との乖離
 もう1つ考えておかねばならないことは、要綱案の構想する制度自体が、憲法的刑事手続という戦後刑事司法思想と整合し難いことである。これには2つの面がある。
 第1は、「新時代の刑事司法制度」で冤罪は防がれるのかという多くの論者の指摘もこの点に関わるが、戦後刑訴法学が目指してきたのは、憲法31条以下の人権規定にいかに忠実な刑事手続を構成するかであり、またそれに活を入れるかであった。弾劾的捜査観にせよ、取調べ可視化や弁護人立会いにせよ、憲法的刑事手続の確立に向けた理論的・実践的課題として提起されてきたものである。しかし、要綱案は、捜査機関に大幅な裁量が存在すると考える糺問的捜査観を前提に、可視化対象事件の局限と広汎な例外設定という構想である。これはどうみても憲法規範と整合しない。
 第2は、これも組織的犯罪対策に関わってであるが、組織的犯罪対策の強化それ自体が、憲法の刑事人権規定との相克を内在しているという事実である。組織的犯罪という「犯罪のガリヴァー化」に対しては「法執行のガリヴァー化」も必要だといわれる(松尾浩也)。ところが、「法執行のガリヴァー化」は、憲法的刑事手続や刑事手続の基本原則との間にしばしば不整合を生じる。諸外国でもこのような不整合の存在は指摘されてきたし、日本においても、通信傍受の導入時、それが憲法の要請する手続保障をクリアしうるのかが大きくクローズアップされた。しかし、要綱案の策定にあたっては、このような原理・原則との関係はほとんど問題とされていない。どころか、問題提起を潰して審議を進めたとさえいえる。

むすびにかえて
 かつてベッカリーアは、『犯罪と刑罰』の中で「残酷なまでの無知と救い難い鈍感さの犠牲になった弱い者たちの呻き声、証拠のない犯罪または単なる想像上の犯罪を理由に無益な過酷さを尽くして科される野蛮きわまりない拷問の数々〔中略〕、こういった光景を目の当たりにするならば、人々の考え方を導くべき政府高官たちは、とうてい平然としてはいられないはずだろう」と述べた(小谷眞男訳による)。
 法制審・新時代の刑事司法制度特別部会は、冤罪事件の相次ぐ発覚を受けたもので、そこで聞かれるべきは、まさに冤罪の犠牲となった「弱い者たちの呻き声」であり、「証拠のない犯罪」を供述させるための拷問ともいえる取調べの実態であった。しかし、「こういった光景を目の当たりにした」にもかかわらず、「人々の考え方を導くべき政府高官たち」は、ベッカリーアの指摘とはうらはらに「平然としていた」という他ない。
 「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」ともいわれるが、経験にすら学ばないという捜査・訴追関係者とそれを支えた研究者集団は、愚者にさえなりえない存在だったのであろうか。