【村井敏邦の刑事事件・裁判考(31)】
戦前の軍機保護法下での冤罪事件  宮澤―レーン事件
 
2014年1月13日
村井敏邦さん(大阪学院大法科大学院教授)
 
特定秘密保護法の強行採決

 強行採決に次ぐ強行採決の結果、特定秘密保護法が可決成立しました。国会終盤になって、法案の危険な性格が市民に浸透してきて、マスコミや世論の反対が強くなってきました。国会周辺を取り囲む市民の声は大きくなり、各地の反対運動も盛んになりました。福島で開かれた公聴会では、すべての人が反対の意見を述べました。しかし、政府与党の耳にはこのような市民の声が届かなかったようです。
 この間、法案に反対する市民の「デモ」は「テロ」と同じだという趣旨の与党幹事長の発言がありました。この発言は、政府与党自ら法案の危険性を暴露したものとして、市民の憤りの声は一層高くなりました。
 市民の反対の声を無視し、数の力で押し切る政府与党のやり方に、多くの人が民主主義の危機を感じ、戦前への回帰を懸念したのも当然です。
 そこで、今回は、戦前の軍機保護法違反で刑を受け、戦後刑務所から出てから、警察で受けた拷問の影響で間もなく死亡した北大生と英語教員レーン夫妻の事件を取り上げることにします。

軍機保護法とは

 戦前の軍国主義化への装備は、日露戦争前に基本的な形を整いました。1871(明治4)年8月に海陸軍刑律が制定され、これが1881(明治14)年12月には陸軍刑法と海軍刑法に分離されました。これらの軍刑法は、軍人・軍属の交戦時における軍事機密の漏えい等を処罰していました。しかし、その前年に制定された旧刑法には、軍事上の秘密保護の規定が設けられ、一般人にも軍事上の秘密を保護する義務が課せられるに至りました。
 1899(明治22)年には、軍事上の機密保護に特化した軍機保護法が制定されました。これはまだ軍人・軍属だけに適用され、一般人には適用されるものではなかったのですが、日中戦争が本格化した1937(昭和12)年、これが一般人にも適用されるものとして全面改正されたのです。この法律の適用を受けた事件が、北大生とレーン夫妻の事件です。

北大生宮澤弘幸の悲劇

 いわゆる真珠湾攻撃の1941(昭和16)年12月8日、北海道帝国大学(現北海道大学)工学部電気工学科の宮澤弘幸さんが、同大学予科の英語教師英語教師ハロルド・レーンさんとその妻ポーリン・レーンさんとともに、軍機保護法違反で逮捕されました。レーン夫妻は、毎週金曜日に官舎を学生たちに開放し、英語で雑談を楽しむ会を開いていて、宮澤さんもその常連でした。そうした親交の中で、宮澤さんが大学の斡旋で行った土地の港湾工事現場の状況や、大学の推薦で便乗した灯台監視船から目撃した根室の海軍飛行場など、旅で見聞した事柄について、レーン家における集いで話したことが、軍事機密の漏泄であるとされました。レーン夫妻は、それをアメリカ大使館付武官らに話したということで、やはり軍事機密漏泄罪にあたるとして起訴されたのです。しかし、宮澤さんが話した内容は何れも公然の事柄で、特別に軍事上の秘密とされるようなものではなかったのです。宮澤さんらは、警察をたらいまわしにされた挙句、ひどい拷問をされました。
 裁判は札幌地方裁判所で開かれましたが、一切非公開です。弁護人はつきましたが、軍機ということで、弁護人は事実の調査もできず、弁護の仕様がなかったのです。
 こうした暗黒裁判の後、札幌地裁は、宮澤さんとハロルド・レーンさんに懲役15年、ポーリン・レーンさんに懲役12年の刑を言い渡しました。
 軍機保護法違反の事件は、地裁の裁判の後、控訴は認められず、直ちに大審院への上告が認められるだけです。宮澤さん、レーン夫妻ともに上告をしますが、大審院は宮澤さんたちの言い分に全く耳を貸すことなく、上告を棄却しました。

戦後に続く苦難

 宮澤さんは、網走刑務所に収容され、1945(昭和20)年6月まで極寒の地で刑を受けます。その間、栄養失調と結核にかかりました。終戦から2か月経った同年10月10日、宮澤さんは、宮城刑務所から釈放されますが、身体はボロボロです。1947(昭和22)年2月22日、宮澤さんは、27年の命を絶ちます。
 レーンさん夫妻は、北大に復帰しますが、どのように逮捕され、取り調べられ、裁判が行われたかなど、事件の真相についてはまったく話しをすることがなく、亡くなったとのことです。「スパイ」というレッテルを貼られたことが戦後まで、夫妻の意識にあったのではないでしょうか。
 宮澤さんも事件のことは何一つ語ることなく、息を引き取りました。

現代の軍機保護法の下で

 特定秘密保護法は、現代における軍機保護法ともいうべきものです。いや、軍機保護法よりも広く秘密を指定することにしています。しかし、秘密指定を行政庁自身が行うこと、秘密の内容については具体性がないままであること、故意に漏えいした場合に限らず、過失による場合も処罰対象にしていることなど、性格上は、軍機保護法と同様です。秘密の立証については、具体性のない外形的な立証で足りると考えられていることも、軍機保護法下の裁判と同様、なぜ秘密なのかということを争うことができない構造になっています。上記の事件でも、宮澤さんが漏らしたという内容が軍事秘密でないこと、罪とならない事実について処罰するものだと、弁護人は主張したのですが、裁判所は一顧だにしなかったのです。
 宮澤さんの事件でも、仮に、彼が漏らした内容が軍事機密にあたるとしても、そのことを知らないで話をしたのですから、故意によるものではないのですが、過失による漏洩を処罰する法制下では、それも処罰されます。特定秘密保護法でも同様のことが起きるでしょう。
 私たちは、戦前において、このような冤罪事件を経験し、さらに戦後においては、沖縄返還密約事件のような事件を経験しています。しかし、そのような経験に懲りずに、一層の危険性のある特定秘密保護法が制定されました。これをそのまま施行させてよいのでしょうか。
 
【村井敏邦さんプロフィール】
一橋大学法学部長、龍谷大学法科大学院教授、大阪学院大学法科大学院教授を経て、現在一橋大学名誉教授。法学館憲法研究所客員研究員。