砂川事件と司法(下)  
2013年5月6日
大出良知さん(東京経済大学現代法学部教授)
前回のつづき>

 検察官の跳躍上告を認め、1審判決を破棄した当時の最高裁長官で、大法廷の裁判長を務めたのは田中耕太郎です。田中は、東大法学部の商法学の教授から、吉田茂内閣によって1950年3月に直接、最高裁長官に指名されていますが、その経歴は、大学教授というよりは、そもそも政治家というに相応しい人物です。
 東京帝国大学法科大学法律学科在学中の1914年(大正3年)に高等文官試験に合格し、卒業後、内務省に勤務しましたが、1年半で退官。1917年(大正6年)に東京帝国大学助教授になります。1923年(大正12年)に東京帝国大学教授に就任し、商法講座を担当したが、商法講座の前任者であり、岳父となったのが、後に国務大臣としてマッカーサー草案によって否定された憲法改正草案を作成した松本烝治という人です。
 1937年(昭和12年)には、東京帝国大学法学部長に就任しますが、敗戦直後の1945年10月には文部省学校教育局長になり、1946年5月に第1次吉田内閣で文部大臣として入閣することになります。6月には貴族院議員になりましたが、1947年に参議院選挙に立候補し、当選しました。
 そして、1950年には参議院議員を辞職して、最高裁判所長官に就任することになりましたが、閣僚経験者で最高裁判所裁判官になったのは、田中だけです。しかも、長官としての在任期間も歴代一位の10年半余に及んでいます。その言動も、およそ公正性・公平性を旨とする司法のトップに相応しからざるものであったといわざるを得ません。社会的に大きな注目を集め3度最高裁に係属し、18年かかって無罪になった八海事件をめぐる裁判批判に対しての「雑音に惑わされるな」といった発言も有名です。
このように見てきますと、この砂川事件での言動も有り得べし、とも思えてきます。そのよう人物が、草創期の最高裁を10年間も支配し続けたということは、国民にとってはもちろん、司法にとっても、極めて不幸なことだったといわざるを得ません。砂川事件の大法廷を構成した裁判官を、任命順に括弧内に前職と任命内閣を示して紹介しますと以下のようになりますが、入江裁判官以降の10人は、すべて田中が行った人事であり、1人の少数意見もなかったということも頷けます。
 小谷勝重(弁護士・片山)、島保(大審院部長・片山)、斉藤悠輔(控訴院検事長・片山)、藤田八郎(大阪控訴院長・片山)、河村又介(九大教授・片山)、入江俊郎(衆議院法制局長・吉田)、池田克(検察官・吉田)、垂水克己(東京高裁長官・鳩山)、河村大助(弁護士・鳩山)、下飯坂潤夫(大阪高裁長官・鳩山)、奥野健一(参議院法制局長・鳩山)、高橋潔(弁護士・石橋)、高木常七(名古屋高裁長官・岸)、石坂修一(大阪高裁長官・岸)。
 裁判官としての見識を疑いたくなりますが、政権党にとっては実に都合のいい裁判官達ということになるでしょう。そして、それが当たり前だという感覚まで生むことになったのではないかと思います。最高裁が、ようやく田中体制を脱却し、公務員の争議権などについて憲法を前提とした解釈により司法本来の役割を果たしはじめたかに見えた1960年代後半になると政権党からの露骨なプレッシャーがかけられることにもなりました。
 憲法的司法を演出し、リベラル派と目された横田正俊長官は、ある時、「自民党に睨まれているからな」と述懐していたという話もあります。そのことが、後任の石田和外長官を生むことになったという推測も決して的外れとは思われません。石田が、政権党と一体になって青年法律家協会に所属する裁判官達を攻撃し、差別し、ついには再任を拒否するといったことを行ったことは、いうまでもありません。その後も、長年法務官僚であった村上朝一が長官になるなど、裁判所内部には、最高裁を頂点とする官僚体制が確立され、30年近くにわたって独立とは名ばかりの上意下達的意識に支配された裁判官達が養成されてきました。
 そのような事態を改革することも今回の司法改革の大きな課題でした。しかし、官僚制を打破することはできませんでした。それに、官僚制の下での養成の後遺症は極めて大きく、前述のような裁判官達が、相変わらず裁判所内部には多数存在しています。そのことを考えますと、今回明らかになった田中問題を過去の問題として一蹴するわけにはいきません。官僚制は牢固として維持されており、火種は再生産されているからです。しっかり過去から学ぶ必要があるでしょう。
 
【大出良知さんのプロフィール】
九州大学法科大学院長などを経て、現在東京経済大学現代法学部長。専攻は刑事訴訟法、司法制度論。
『裁判を変えよう−市民がつくる司法改革』『長沼事件 平賀書簡−35年目の証言、自衛隊違憲判決と司法の危機』など著書多数。