東電OL事件再審開始決定の意義  
2012年7月30日
大出良知さん(東京経済大学現代法学部教授)

 5月25日、名古屋高裁が名張事件の再審請求を棄却しましたが、その2週間後の6月7日には、東京高裁が、東電OL事件について、再審を開始し、請求人の刑の執行を停止する決定を行いました。東電OL事件も一審無罪で、高裁で逆転有罪(無期懲役)になったという点では、名張事件と共通していました。とはいえ、両事件は、発生時期が大きく異なっているという点はともかく、それ以上に証拠開示の有無という点でも異なっていました。
 しかし、請求棄却と再審開始とを分けたより重要な要素は、両裁判所の再審開始要件についての理解の相異であったと考えられます。
 あらためて指摘するまでもなく、再審をめぐる状況は、大きく変化してきました。未だに言及されることの多い最高裁第1小法廷の白鳥決定(1975年5月20日)が、再審問題の展開にとって画期をなしたことは間違いありません。しかし、白鳥決定以降の1970年代後半から1980年代にかけての再審による救済の進展は、必ずしも、白鳥決定の定着を意味していたわけではありませんでした。
 白鳥決定の最重要ポイントは、再審請求審においても、「再審開始のためには確定判決における事実認定につき合理的な疑いを生ぜしめれば足りるという意味において『疑わしいときは被告人の利益に』という刑事裁判の鉄則が適用される」としたことでした。この点については、さらに同じ最高裁第1小法廷が、財田川決定(1976年10月12日)で、その意味を敷衍して次のように述べていました。「『疑わしいときは被告人の利益に』の原則を適用するに当たっては、確定判決が認定した犯罪事実の不存在が確実であるとの心証を得ることを必要とするものではなく、確定判決における事実認定の正当性についての疑いが合理的な理由に基づくものであることを必要とし、かつ、これをもって足りる」と。
 その意味するところは、80年代半ばになり、白鳥、財田川両決定に関わった団藤重光博士によって、次のように「解説」もされていました。すなわち、「合理的な疑いが残れば無罪です。そういうふうなことを再審の関係にも当てはめるべき」で、「合理的な疑いが残るということになれば、・・・再審の開始をするのが当然であろう」ということでした(「現代社会における判例の役割」法学教室42号9頁(1984年))。要は、確定の前後を問わず、有罪判断の基準は同一であり、それは、有罪であることに「合理的な疑い」が残らないことである、ということです。
 ところが、このメッセージは、実質的に反故にされ、1990年代の再審の「冬の時代」が現出されることになりました。その主な理由の1つは、「合理的な疑い」が、抽象的に定義されるのみで、実務における基準を変化させることにならなかったことである。すなわち、有罪率99.9%という、事実上有罪推定が働いているという事情の中で、刑事裁判の片面性を反映した「合理的な疑い」基準を実質化することができなかったことです。そのことは、白鳥決定の調査官解説が、一方で、「有罪心証が動揺すれば、一般に無罪の挙証責任は尽くされた」とし、「この理は、判決の確定前後によって本質的な差異はない」ことを認めながら、他方で、「新証拠と旧証拠との総合評価によって無罪を指向する証拠が優勢であることを必要としている」としていたことに端的に示されていました(田崎文夫「最高裁判所判例解説」法曹時報28巻7号209、210頁)。「合理的な疑い」が、「無罪証拠の優勢」を意味するとすること自体、挙証責任が検察官にあり、「合理的な疑い」を超えた有罪立証があったか否かのみが問われている刑事裁判の片面性を無視した、明らかに誤った認識であり、そのような認識が、通常手続についての理解を含めて実務の認識だったことを示していたということです。
 名古屋高裁の名張事件についての棄却決定は、その旧態依然たる理解によってもたらされたものです。ぶどう酒に混入され農薬が、請求人が混入したとされる農薬かどうかについて科学的に疑いが生じたにもかかわらず、科学的に明確に否定されたわけではないということで棄却されたのです。
これに対して東電OL事件では、明らかに異なった判断が行われています。弁護人が提出した新証拠によれば、被害者でも請求人でもない男(開始決定は、資料番号から「376の男」と呼ぶ)の存在を示しているとします。そして、新証拠は、@376の男が、犯行現場で被害者と性交した可能性を示し、Aその後被害者を殴打して出血させ、その際、376の男のDNAを示す手の表皮の混じった血液を被害者のコート左肩背面部に付着させた可能性を示すものであり、@Aは、相互にその可能性を高め合っている、としています。すなわち、376の男が犯人であることが「自然といえるような? または少なくともその可能性を否定できないような状況を示している」として、最終的にも、376の男が犯人であるという見方を「確定判決の証拠構造に照らして検討しても、なお排斥できない」として、確定判決の有罪認定に「合理的な疑いを抱かせ」ることになったとして再審の開始を決定しました。
このように?東電OL事件の東京高裁の再審開始決定は、あくまでも請求人を有罪にすることに「合理的な疑い」がないかという観点から徹底して検討を加えています。その上で、たとえ、有罪の可能性があっても、犯人でない可能性が残る限りは、有罪にできないという姿勢を明確に示しています。
 このような判断は,最近の最高裁が示している「合理的な疑い」意味にも符合しています。例えば、疑いが「必ずしも説明のつかない事実であるとはいえない」、「必ずしも不合理なものとはいい難い」といった疑いが払拭できない限り、有罪と断定することはできないということです。
 それは、ようやく白鳥決定が実質化することになってきたことを示していますし、このような理解に従えば、名張事件も再審が開始されてしかるべきだったと考えられます。
 
【大出良知さんのプロフィール】
九州大学法科大学院長などを経て、現在東京経済大学現代法学部長。専攻は刑事訴訟法、司法制度論。
『裁判を変えよう−市民がつくる司法改革』『長沼事件 平賀書簡−35年目の証言、自衛隊違憲判決と司法の危機』など著書多数。