【村井敏邦の刑事事件・裁判考(10)】
福井女子中学生殺害事件の再審開始(その2)〜福井女子中学生殺害事件と証拠開示
 
2012年2月6日
村井敏邦さん(大阪学院大学法科大学院教授)

前回からの続き

 前回触れたように、福井女子中学生殺害事件の再審請求審で、開示された検察官手持ち証拠の中から、請求人に有利な証拠が発見されました。そして、その証拠を中心として、裁判所は、有罪の基礎となっている証拠を見直して、再審開始に十分な証拠が提出されたと判断しました。足利事件や布川事件においても、再審段階で開示された証拠によって、有罪確定判決が覆されています。
 1966(昭和41)年に静岡県清水市(現在の静岡市)で一家4人が殺害された事件について死刑判決が確定している袴田事件の第2次再審請求においても、本年1月12日、静岡地裁の勧告に基づいて、静岡地検は袴田巌死刑囚(75)の取り調べの録音テープや供述調書などの未開示証拠176点を地裁に提出しました。
 このように、再審請求においては、それまで隠されていた証拠が提出されて、確定判決が覆されており、証拠開示の重要性がいま改めて注目されています。そこで、今回は、証拠開示の進展の状況をたどり、なお改善されない点について考えていくことにします。

司法改革以前の証拠開示制度の状況

 戦後の刑事訴訟法制定の当初から、検察官が公判において証拠調べを請求する予定の証拠は、被告人・弁護人にあらかじめ開示しなければならないとされました。しかし、検察官が証拠として提出する予定のない証拠は、開示されません。
 警察・検察の捜査機関は、膨大で強力な組織力をもって証拠を収集します。その中には、被疑者にとって有利な証拠もあります。しかし、被疑者の容疑を固めたいと思っている捜査機関は、被疑者にとって有利な証拠は軽視あるいは無視する傾向があります。場合によっては、意図的に隠したり、改ざんしたりすることがあります。前に見た村木事件の証拠改ざんはその一例です。

松川事件における諏訪メモ

 東北本線金谷川駅から松川駅に向かう途中の線路右側の丘陵のふもとに、全長9メートルの「松川の塔」と記された塔があります。これは、松川事件被告人全員の無罪確定一周年の1964年9月12日に建てられました。そこには、次のような一文が記されています。
「1949年8月17日午前3時9分この西方200米の地点で、突如、旅客列車が脱線転覆し、乗務員3名が殉職した事件が起った。
何ものかが人為的にひき起こした事故であることが明瞭であった。
どうしてかかる事件が起ったか。
朝鮮戦争が始められようとしていたとき、この国はアメリカの占領下にあって吉田内閣は、二次に亘って合計9万7千名という国鉄労働者の大量馘首を強行した。かかる大量馘首に対して、国鉄労組は反対闘争に立上った。
その機先を制するように、何者の陰謀か、下山事件、三鷹事件及びこの松川列車転覆事件が相次いで起り、それらが皆労働組合の犯行であるかのように巧みに新聞、ラジオで宣伝されたため、労働者は出ばなを挫かれ、労働組合は終に遺憾ながら十分なる反対闘争を展開することが出来なかった。
この列車転覆の真犯人を、官憲は捜査しないのみか、国労福島支部の労組員10名、当時同じく馘首反対闘争中であった東芝松川工場の労組員10名、合せて20名の労働者を逮捕し、裁判にかけ、彼らを犯人にしたて、死刑無期を含む重刑を宣告した。この官憲の理不尽な暴圧に対して、俄然人民は怒りを勃発し、階層を超え、思想を越え、真実と正義のために結束し、全国津々浦々に至るまで、松川被告を救えという救援運動に立上ったのである。この人民結束の規模の大きさは、日本ばかりでなく世界の歴史に未曾有のことであった。救援は海外からも寄せられた。
かくして14年の闘争と5回の裁判とを経て、終に1963年9月12日全員無罪の完全勝利を勝ち取ったのである。
人民が力を結集すると如何に強力になるかということの、これは人民勝利の記念塔である。」


 逆転無罪判決の大きな決め手となった証拠が「諏訪メモ」です。これは、「実行犯」として一審・二審で死刑判決を受けたSさんが、他のメンバーと共に謀議をしたとされる時間に、労使交渉に出席していたために謀議の場所に行くことが不可能であったことを示すSさんの相手方である使用者側の人の作成したメモです。この作成者の名前をとって、「諏訪メモ」と呼ばれています。
 このメモは1、2審で証拠としては提出されず、最高裁の段階でその存在が判明し、裁判所の提出命令によって提出されました。審理の最初からこのメモが証拠として提出されていれば、Sさんをはじめとして、列車転覆に加担したとして有罪を言い渡された労働者たちの無罪が証明されていたはずです。

全面的証拠開示の要求と裁判所の態度

 捜査側の手元にあるすべての証拠を弁護側に開示せよという声は、諏訪メモの発見以後いっそう大きくなりました。ところが、裁判所は、証拠を全面的に開示することを認める規定がないとして、この声になかなか耳を傾けません。
 この裁判実務にすこし風穴を開けたのが、1969(昭和44)年4月25日の最高裁判所第二小法廷決定です。
 この決定で裁判所は、訴訟指揮による証拠開示を認める判断を示しました。次のように言っています。
 「証拠調の段階に入つた後、弁護人から、具体的必要性を示して、一定の証拠を弁護人に閲覧させるよう検察官に命ぜられたい旨の申出がなされた場合、事案の性質、審理の状況、閲覧を求める証拠の種類および内容、閲覧の時期、程度および方法、その他諸般の事情を勘案し、その閲覧が被告人の防禦のため特に重要であり、かつ、これにより罪証隠滅、証人威迫等の弊害を招来するおそれがなく、相当と認めるときは、その訴訟指揮権に基づき、検察官に対し、その所持する証拠を弁護人に閲覧させることを命ずることができるものと解すべきである。」
 この決定によって、証拠開示実務が進展したことは疑いありません。しかし、訴訟指揮権を行使するかどうかは、裁判所の裁量に任されており、証拠開示を求める要件も相当に厳しいものです。何よりも、証拠が検察官の手元にあることが明確な場合しか、開示要求はできません。

公判前整理手続きにおける証拠開示制度

 裁判員裁判の導入に伴い、公判前整理手続きの行われる裁判においては、大幅な証拠開示を認める規定が設けられました。刑事訴訟法上、初めて公判前証拠開示手続きが定められたのです。そこでは、検察官請求証拠以外に、供述調書など一定の類型に当てはまる証拠(類型証拠)の開示と、弁護人・被告人の主張に関連した証拠(主張関連証拠)の開示が認められました。
 この法改正は、裁判実務にも影響を与え、供述調書類だけではなく、取調メモのように、捜査官の手もとで手控え的に作成した文書の開示も認められるようになりましたし、また、検察官の手元にあるものだけではなく、手元になくとも容易に取り寄せができる証拠については、開示が命じられるようになりました。公判前整理手続きが行われない裁判においても、証拠開示実務が進展しました。再審請求審での証拠開示の進展もその影響一つです。

なお残る課題

 このように、現在、証拠開示はかなりの進展を示しています。しかし、なお、全面的証拠開示には至っていません。開示すべき証拠を明示し、開示の必要性についても、具体的に記載して要求しなければならないのです。開示すべき証拠を明示するためには、捜査官の手もとにどのような証拠があるかがわかる必要があります。捜査側にある証拠の一覧表があれば、この点は解決します。実は、裁判官は、必要がある場合には、一覧表の提出を求めることができるのですが、これは弁護人側には示されません。
 なぜ、証拠の一覧表を弁護人には見せないのでしょう。そこには、全面証拠開示に対する捜査側の今なお強い反対があるからです。ある元検察官は、証拠開示を全面的にすると、弁護人の「モラル」と「モラール(士気)」が失われると述べました。しかし、捜査側による証拠隠しや証拠の改ざんこそ、「モラル」と「モラール」を損なう行為ではないでしょうか。
 公判前に証拠が開示されるようになったのは、大きな進展ですが、捜査段階での開示は依然としてありません。被疑者弁護をするためには、捜査段階で、どのような証拠が、どれほどあるかを知ることが必要となります。
 筆者の被疑者弁護の数少ない経験の中に、私が担当していた被疑者の共犯者の取調官がおとり捜査官だったという事件があります。詳しい内容は、機会を改めて述べるつもりですが、被疑者段階でこのことがわかっていれば、起訴をさせない弁護もできたのにと、悔やまれたものです。被疑者段階での証拠開示も、今後に残された大きな課題です。
【村井敏邦さんプロフィール】
一橋大学法学部長、龍谷大学法科大学院教授、大阪学院大学法科大学院教授を経て、現在一橋大学名誉教授。法学館憲法研究所客員研究員。