【村井敏邦の刑事事件・裁判考(5)】
布川事件再審無罪について(2)
 
2011年9月5日
村井敏邦さん(大阪学院大学教授)

取調べ方法の問題
  布川事件の取調べでは、いわゆる「切り違い尋問」や「誤導尋問」が行われています。
  共犯者の一方、仮にこれを「A」とし、他方の共犯者を「B」としましょうか。「切り違い尋問」というのは、Aに対しては、「Bはお前と二人でやったと言っているぞ。お前が頑張っても、Bがしゃべっているから、無駄だし、Bはお前のせいだと言っているから、お前は黙っていると損をするだけだぞ」などといい、Bに対しては、逆に「Aはさっさと自白して、お前に引き込まれたと言っているぞ」などといって、二人を不安な状態において、ABそれぞれから自白を引き出すやり方です。
  「誤導尋問」というのは、たとえば、殺人を否認しているのに、「被害者を殺したのは、ナイフか、包丁か」というように、間違ったことを前提として、その前提の上で話を進めるやり方です。上の「切り違い尋問」にも、この「誤導尋問」が使われています。

 

「囚人のディレンマ」
  「ゲームの理論」の一つに「囚人のディレンマ」というのがあります。次の表を見てください。

  B
A × × × ○
○ × ○ ○

 ×は否認で○が自白とします。A、Bともに否認の場合には無罪となります。Aが否認しBが自白した場合とAが自白しBが否認した場合には、否認した側は相手方の自白で有罪になる上に、自白した者が刑を軽減される(30%)のに対して、そのような特典が得られません(70%)。両方自白した場合には、有罪ですがそれぞれ50%の刑を受けることになるとします。
  このような場合、相手方が否認することを確信する場合には、A、B双方ともに否認していれば無罪の可能性があるのですが、相手方への信頼がない場合には、自分だけが否認していると相手方よりも刑が重くなる可能性があります。そこで、取調官が相手方への信頼感を揺るがすことができれば、被疑者は自分だけ頑張っていれば相手方より重い刑を受ける可能性があり、仮に二人ともに自白したとしても、自分だけが否認を貫いているよりも軽い刑になる可能性があると考え、結局、二人とも自白してしまいます。これが、上述の「切り違い尋問」の目的とするところです。

偽計による自白
  最高裁判所は、1970(昭和45)年11月25日の判決によって、切り違い尋問などの偽計を用いて被疑者を錯誤に陥らせて自白を獲得するような取調べ方法は、厳に避けるべきであり、そのような取調べの結果得られた自白は任意性に疑いがあり、証拠能力は否定されるべきであるとしました。布川事件の取調べでは、切り違い尋問のほかに、「否認していると死刑になるぞ」とか、嘘発見器の結果についても「犯人と出た」などとうそを言われて自白しています。
  確定までの裁判では、裁判所は、桜井さんらの訴えにまったく耳を貸そうとしませんでした。今回の再審裁判では、裁判所は、このような偽計が用いられて自白が得られたということについて、やっと認めて、自白の信用性を否定しました。しかし、本来ならば、このようにして獲得された自白の証拠能力を否定しなければならなかったはずです。

目撃供述の信頼性について
  布川事件では、自白と目撃者の供述が検察側証拠の主要な柱でした。自白については、上記のような問題点がありましたが、目撃者の供述についても、あいまいな点が多く、信頼性に問題がありました。
  この事件では、事件自体を目撃したという供述は、一つもありません。被害者の家の前に桜井さんと杉山さんらしき二人の人物が立っていたのを目撃したという供述が、検察側供述としては最も強力なものです。事件があったと思われる時間帯に被害者の家の前に立っていたという事実は、その人物の犯人性を推認する証拠として、まったく意味がないとは言えませんが、状況証拠としての推認力は、それだけでは薄いと言わざるを得ません。自白があってはじめて、その補強証拠としての意味を持つにすぎません。
  しかも、この供述自体が一貫せず、目撃状況も夜間バイクで通って見たというもので、仮に二人の人物を認めたとしても、人物の特定ができる状態であったかについて、弁護団は当初から疑問を投げかけていました。
  その他の供述は、駅で桜井さんたちらしき人物を見かけたとか、すれ違ったとかというようなもので、それ自体としては、桜井さんらの犯人性を特定するような内容のものではありません。
  しかし、自白とこれらの目撃供述とで、桜井さんら有罪が確定したのです。
  そもそも、自白と同様、目撃供述の信頼性については、基本的に疑問をもってかからなければなりません。人は容易に思い違い、記憶違いを起こします。新聞やマスコミの情報、捜査情報によって簡単に誘導される危険があります。
  目撃供述については、最近の法と心理学的研究の進展の中で、その信用性には、よほどの注意を必要とすることが指摘されてきました。供述された状況や供述採取の方法などについて、慎重な検討が必要です。信用性を認めるためには、最低限、どのような条件が必要か、この点については、法と心理学会では、一定のガイドラインを示しています。裁判所は、このような研究の成果を踏まえて、目撃供述の信用性を慎重に判断すべきでしょう。

取調べ過程の録音テープの存在について
  布川事件でも、取調べの最終段階で、自白の任意性を立証するための証拠として、録音テープが作成されています。確定審において、このテープが検察官側から任意性立証の証拠として提出され、確定最高裁判所は、これによって自白の任意性、信用性が裏付けられたとしていました。
  しかし、再審では、録音テープと自白調書との内容上の食い違いが随所にみられるなどの点が指摘され、裁判所は、このテープの証拠価値が高くないとしました。しかも、より問題なことには、この録音テープはテープをカットするなどの編集が行われて、改竄されていた可能性が指摘されました。
  取調べ過程の録音・録画は、取調べ過程の可視化のために必要なことです。しかし、それは、捜査側が自白の任意性を立証するために、都合よく編集されるようなことがないという保証が必要です。可視化は、録音・録画方法と過程についての可視化も含まれていることを銘記しなければなりません。布川事件では、そのことがまざまざと示されました。

 
【村井敏邦さんプロフィール】
一橋大学法学部長、龍谷大学法科大学院教授、大阪学院大学法科大学院教授を経て、現在一橋大学名誉教授。法学館憲法研究所客員研究員。