鹿児島地方裁判所無罪判決の意義  
2011年1月3日
大出良知さん
(弁護士)

 共同通信の集計によると、一昨年5月に裁判員裁判がはじまって、昨年末までに判決を迎えた事件は1421件、被告人は1498人になったということです。その99.9%が、有罪判決であり、有罪率に変化はないようです。それは、検察官が、裁判員制度のスタートにあたって、それまでの有罪率を確保しようと、自白が存在し有罪が確実な事件に起訴を絞り込んできた結果でしょう。
昨年になって、否認事件についても起訴が行われるようになりましたが、その場合にも、検察官はなお様子を見るため、従前の裁判官のみの裁判であれば、有罪になったであろうという事件を起訴してきたのではないかと考えられます。
その様な事件の中には、刑事裁判の原則的な視点からすれば無罪であるべき事件も含まれていると考えられ、いよいよ裁判員裁判を導入したことが、これまで指摘されてきた刑事裁判の問題点を打開することになるのか、検察官の起訴を「有罪」と同視するような裁判所の姿勢を変えることができるのかが問われてきたといって良いでしょう。
そして、検察側のいわばこれまでの有罪基準を維持するための有罪獲得への「厳選」という中で、軽い罪名への変更や一部無罪という判決も生まれてきましたが、昨年になって2件の全面無罪という注目すべき判決が生まれてきました。
その1件目が、8月2日掲載のこの欄で、担当弁護人が報告されている昨年6月22日の千葉地裁の無罪判決です。覚せい剤の密輸入の事件で、いくら被告人が人に頼まれて運んだので、中身を全く知らなかったとどんなに否定しても、その荷物が現に覚せい剤であれば、裁判所が被告人が知らなかったと認定することは、ほとんどありませんでした。これに対してこの判決は、厳密に被告人が知っていたという立証があったのかを問うという原則的場立ち場を貫き通しました。
2件目が、ここで取り上げたいと思った昨年末12月10日の鹿児島地裁の無罪判決です。既に報道で、ご承知かと思いますが、被告人が、住居侵入の上、強盗殺人を犯したという事件です。検察官は、被害者が2人であり、被告人が全面的に争っていたからだとも思いますが、死刑を求刑していました。被告人は一貫して否認し、無罪であることを主張していました。
検察官の死刑求刑を支えていたのは、自白や目撃供述といった直接証拠はありませんから、現場に慰留されていたとされる被告人のDNA型とほぼ一致するとされた細胞片と被告人のものと一致する複数の指掌紋等の情況証拠の存在でした。それらの証拠は、直接殺人を証明する証拠ではありませんが、被告人の住居侵入を証明する証拠であり、事件現場に被告人以外の不審な第三者の痕跡がないことや被告人にアリバイがないこと等を総合すれば、被告人が犯人に間違いないというのです。
確かに、これまでの裁判では、このような証明で、裁判所は有罪と認めることがあったといってもよいでしょう。であればこそ、検察官は起訴し、死刑を求刑したとも考えられるのです。
しかし、繰り返しになりますが、殺人についての証拠は、何もありません。主な点をあげるだけでも、凶器とされたスコップからは、被告人の指掌紋は一切発見されていません。現場に残された足跡からも犯人を絞り込むことはできていません。さらに被告人の周辺から、殺人の痕跡を示す衣類に付着した血痕といったものも一切見つかっていません。さらに、現場からは、容易に発見される場所に多額の現金が放置されており、「強盗」という検察官の主張とも矛盾していました。
以上のような証拠関係から、判決は、被告人が現場に行ったことがないというのは「嘘」である、としながらも、この「嘘」によって強盗殺人の犯人というわけにはいかないし、他の強盗殺人に関わる証拠関係から被告人を犯人とすることは、「許されない」としました。すなわち、住居侵入を示す証拠があったとしても強盗殺人を証明する証拠がない限りは、有罪にはできない、との判断を示したのです(もっとも、その住居侵入についても、その日時についての証明がないということで無罪にしています)。
その判断の重要性は、少なくとも次の3点にあったといってよいでしょう。
まず第1に、情況証拠による証明についての総論です。「被告人が犯人であることに合理的な疑いを差し挟む余地のない程度に立証されることが必要である」ことは当然として、さらに最近の最高裁判決(2010年4月27日、判例時報2080号135頁、判例タイムズ1326号137頁)で示された情況証拠による証明についての判断に従っている点です。すなわち、「情況証拠によって認められる事実の中に、被告人が犯人でなければ合理的に説明することができない(あるいは、少なくとも説明が極めて困難である)事実関係が含まれていなければならない」として、情況証拠による証明の場合の「合理的な疑い」を具体的に示していることです。しかも、その確認に際して、被告人に不利な情況証拠だけでなく、有利な情況証拠や消極的な情況証拠、犯行現場から発見された、あるいは発見されなかった痕跡をもらさず確認することを要求しています。
第2に、第1の総論に従った慎重で綿密な各論的検討です。ここで詳細には触れませんが、具体的には、犯人と被告人の同一性について、検察官が、「積極的証拠として主張する情況証拠」3点、「犯人性を支えるものとして主張する情況証拠」4点、「被告人が犯人であることをうたがわせる事情」5点、「被告人の公判供述」等が詳細に検討対象とされています。
第3に、警察の捜査活動や検察官の立証活動に対する厳格な評価です。すなわち、現場保存や資料収集、捜査活動の不十分性を厳しく指摘するとともに、公正は判断を行うために不可欠な証拠開示についての公益の代表者としての検察官の消極的姿勢を強く批判していることです。
そして、判決は、最終的に、「本件においては、情況証拠によって認められる間接事実の中に、被告人が犯人でなければ合理的に説明することができない(あるいは、少なくとも説明が極めて困難である)事実関係が含まれていないというほかない」として無罪という判断を示しました。原則に従った、慎重・綿密な検討の結果としては、当然の結論と考えられます。
しかし、検察官は控訴しました。そこに従前の実務の感覚を感ぜざるを得ません。そのような感覚によって、刑事裁判の鉄則に従い、裁判員裁判の導入の意味を象徴的に示した画期的判決の意義が失われることはあり得ないでしょうが、一日も早く検察官の控訴が棄却されることを願わずにはいられません。

 
【大出良知氏のプロフィール】
九州大学法科大学院長などを経て、現在東京経済大学現代法学部長。専攻は刑事訴訟法、司法制度論。
『裁判を変えよう−市民がつくる司法改革』『長沼事件 平賀書簡−35年目の証言、自衛隊違憲判決と司法の危機』など著書多数。