裁判所・裁判官を市民が監視する  
2009年12月21日
池添徳明さん(ジャーナリスト)

 私はこれまで多くの裁判官とその仕事を取材し、記事にしてきた(単行本『裁判官Who's Who/首都圏編』『裁判官 Who's Who/東京地裁・高裁編』、雑誌「冤罪ファイル」の連載「シリーズ・裁判官の品格」など)。この間の取材で感じるのは、民事でも刑事でも、裁判官として本当にあるべき判断をしている裁判官は決して多くないということだ。「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」(憲法76条3項)ということにはなっていない。たとえば、行政事件の裁判では、行政側の主張を引きうつしたような判決が目に付く。刑事裁判は、「疑わしきは被告人の利益に」が原則であるはずなのに、実際には必ずしもそうはなっていない。警察の捜査と取調べ調書、検察官の起訴状を鵜呑みにした判決ばかりだ。もちろん、刑事裁判の原則に従ってまじめに仕事をしている裁判官も少なからずいるし、私はその仕事ぶりも紹介している。しかし、そのような裁判官は、残念ながら多数派ではない。

 多くの市民は、裁判官は人格者で、公正・中立に審理を進めて判断してくれるものだと思っている。しかし、最近は少し変わってきたように思う。足利事件や御殿場事件など、いろいろなえん罪事件の経過が明らかになって、不可解で不公正な審理をする裁判官の実像が少しずつ明らかにされてきたことが背景にあるだろうし、痴漢えん罪事件での無罪判決やそれを題材にした映画「それでもボクはやってない」などの影響も大きいと思う。だれもが逮捕・起訴され、無実であるにも関わらず裁判で有罪とされる危険があるということを、市民が身近な問題として理解するようになってきている。裁判が科学的で客観的な証拠に基づいて審理され、「疑わしきは被告人の利益に」という推定無罪の原則に則ったものになっていくことを期待したい。

 裁判員制度がはじまった。職業裁判官による裁判には、刑事にも民事にも疑問や不信感がたくさんあるので、このまま裁判をプロの裁判官に任せていて大丈夫なのかという思いはある。だから、とりあえず刑事裁判に市民が参加することで、司法の現状を変えようという試みや理念は理解できる。ただ、裁判員裁判になればすべての問題が解決するというものでもない。たとえば、第一号の裁判員裁判は隣人同士の日常的なトラブルの末の殺人事件だったが、裁判員裁判の判決は検察側の主張を全面的に認めるものだったように感じる。おそらく被害者と加害者との間には過去にさまざまな応酬があっただろうが、加害者側の情状や言い分が考慮されたようには思えない。近隣住民の目撃証言のあいまいさや調書との食い違いが浮き彫りになったが、そうした矛盾は十分に審理されたのだろうか。わずか4日間の日程で判断できるのか、といった素朴な疑問が残る。裁判員裁判を検証するべきマスコミ報道のあり方にも課題は多い。

 裁判員制度には見直し・改善が必要だ。裁判員裁判の公判は3日間くらいの日程が多いが、これで慎重な検討ができるのだろうか。市民が裁判員として裁判に参加できる日数は限られると思うが、時間をかけて検討すべき裁判もあるはずだ。裁判員裁判は、市民にも裁判官にも大変な負担がかかる。とりあえず裁判員裁判を、被告人が犯行を否認するような難しい事件に絞り込んでみてはどうか。そうすれば関係者の負担も軽減され、市民感覚を反映すべき裁判を充実させることも可能になるのではないか。もう一つ提案しておきたい。「裁判に市民が参加して市民感覚を反映させる」というならば、むしろ行政訴訟や労働事件こそ、裁判員裁判を導入すべきではないだろうか。

裁判員裁判については、裁判員に課される守秘義務が厳しすぎるということも指摘しておきたい。裁判員の個人情報が漏れてはならないが、評議の様子や裁判官の訴訟指揮がブラックボックスでは、どのようなプロセスで審理され判断されたのか、裁判官による誘導はなかったかなど、裁判員制度の検証ができない。裁判で何が起きてどう感じたのかを積極的に知らせたいという裁判員の発言は、基本的に認められるべきである。

 裁判所はもっと市民に開かれなければならない。裁判の傍聴は席の数以上には認めない、というような杓子定規な対応は改めるべきだ。韓国の裁判を傍聴したことがあるが、韓国では席が足りなければ傍聴席に椅子が追加され、立ち見も認められた。裁判所・裁判官への市民の監視は今後ますます重要になる。(2009年12月12日。談)

 
【池添徳明さんプロフィール】
1960年生まれ。新聞記者を経てフリージャーナリスト。関東学院大学非常勤講師。
著書に『裁判官Who's Who/首都圏編』『裁判官 Who's Who/東京地裁・高裁編』(現代人文社)、『日の丸がある風景』(日本評論社)、『教育の自由はどこへ』(現代人文社)など。