対談「裁判員制度の意義を考える」
その四「司法への国民参加の憲法上の意義」
 
2009年9月14日
大出良知(「司法改革・市民フォーラム」代表・東京経済大学教授)
伊藤真(法学館憲法研究所所長・伊藤塾塾長)
伊藤
  「なぜ裁判員になることを強制されるのか」ということが普通の市民の感覚としてあります。刑事裁判におかしなところがあるのであれば、プロの裁判官が変えればよいのであって、拒否すれば処罰すると言われながら、なぜ国民が強制されるのか、という疑問です。
大出   おっしゃる通り、世論調査でも裁判に裁判員として参加したくはないという声が多いですよね。
伊藤   裁判員になることが義務ということならば仕方なく行く、という人は結構いますが、国民が主体的に裁判員になるためにどのように説明していくかという問題があると思います。
大出
  裁判所によるこれまでの説明は市民が得心するような内容になっていませんでした。要するに裁判員はプロの裁判官の「刺身のツマ」ならぬ「専門家のツマ」になってくれれば良いといったものでしかなかったのではないかと思います。それでは、なぜ国民が苦労して参加しなければならないのか分からない話です。
実は、前の対談の時にお話ししたように、裁判員制度の導入には刑事裁判を変えるという重要な意義があるのですが、そのことを当局の方達は認めようとしないからです。加えて憲法が謳う国民主権原理を司法の場でもより具体化するという意義も十分には説明されていないと思います。
伊藤   司法権も国家権力の一つであり、その正当化の根拠は国民ということになります。国民主権原理は、政治部門においては民意=多数意思の反映が求められますが、それは司法の場にはあてはまりません。多数意思による司法では裁判が人民裁判になってしまいますから、司法の場で国民に求められるのは、その監視や批判ということになります。ただし、国民が自ら主体的に参加したものでなければ民主主義は本物だと言えません。
大出   国民が司法にも主体的に参加するベースをどうつくるかですね。
伊藤   まずは法教育です。司法にも国民が主体的に関わることによって、司法が変わるのだという理解を広げなければなりません。
大出   おっしゃる通りだと思います。しかし、国民の理解が広がってから裁判員制度を導入すればよかったという意見については賛成できません。そのようなやり方では「百年河清を待つ」ことになってしまうと考えます。国民が実際に刑事裁判に参加してみて、その意義を理解していくという方法がとられたことは、評価されると思っていますが、どう思われますか。
伊藤   憲法の考え方から言っても、何らかの形で国民が司法に参加することは当然進められるべき課題でした。
大出   制度設計の議論の中で一部の専門家の中に裁判員裁判違憲論がありました。それは、要するに、国民には裁判官の裁判を受ける権利があるという議論だったかと思います。しかし、日本国憲法は明治憲法を変え、「裁判官の裁判」を受けるのではなく、「裁判所の裁判」を受けるということにしたのですから、その違憲論には無理があると思うのですが。
伊藤   憲法学の通説は国民の司法参加を容認しています。しかし、プロの裁判官の職権の独立が保障されることが前提だとしています。私は公正な裁判でありさえすれば、プロの裁判官の職権の独立などが過度に強調されることは適当でないと考えています。
大出   憲法学では、立法権や行政権と比べて、司法権の場合、国民との間には少し距離がおかれるべきだといった議論もあるようですが。
伊藤   憲法上、裁判所には違憲審査権がありますので、裁判所が国会を監視する「正義の味方」のように理解されがちです。そこで国民の司法への口出しは不要という感覚が生まれてしまっています。憲法を見ても、国民は国会議員を選び、国会が内閣を選び、内閣が最高裁判事を選ぶことになっています。国民が直接的に裁判官を選ぶことになっていません。
しかし、司法権という強大な権力を国民が監視することはどうしても必要なことです。司法が政治をきちんと監視してきたのか、あるいは冤罪を出さなかったかといったら、まったくそうではなく、司法への国民の監視・批判はもっともっと強められなければなりません。