対談「裁判員制度の意義を考える」
その二「刑罰を課すということ」
 
2009年8月10日
大出良知(「司法改革・市民フォーラム」代表・東京経済大学教授)
伊藤真(法学館憲法研究所所長・伊藤塾塾長)
大出  裁判員裁判の開始にあたって、市民の中には「裁判はむずかしそう」「自分にはできない」という不安感があります。
ただ、私はゼミの学生たちに、「アメリカやイギリスの市民は実際に裁判に参加している。アメリカ人やイギリス人ができることを日本人はできないと思うか」と問うと、「たしかに、日本人にはできないとは言えないですね」と返ってきます。
伊藤
  こんにち陪審制を採用している国が多くありますが、そこでは、陪審員は被告人が有罪なのか、あるいは無罪なのか、ということを判断するのが通例です。ところが、日本の裁判員制度では裁判員が有罪・無罪だけでなく量刑の決定にも参加しますので、ここにも市民の不安感があるのではないでしょうか。
大出
  たしかに量刑の決定にも参加することへの市民の不安感はあると思います。ただ、裁判官や検察官が量刑についての専門家なのかといったら、決してそうではありません。それに、外国でも参審制を採用している国も結構あるわけでして、その場合には市民が量刑にも関わっているわけで、市民に判断できないわけではない。
犯罪を犯した人たちには制裁が加えられるわけですが、その人たちが刑期を終えた後に社会復帰することも想定して、量刑の判断もなされなければなりません。であれば、本来は心理学者や教育学者、ケースワーカーなどの意見もふまえて検討されるべきです。現に欧米ではそうしています。裁判官は量刑についての唯一の専門家であるような姿勢をとらずに、市民や他の専門家とともに謙虚に検討してもらいたいですね。
伊藤  日本の刑法は法定刑の範囲が広いという特徴があります。その中でプロの裁判官による長年の裁判によって量刑の相場のようなものができていますが、それぞれの量刑が本当にそれでよいのかの検証も必要だと思います。
大出  関連することとして刑務所のことがあります。イギリスの刑務所長さんが日本の府中刑務所を見学して、文明国日本の施設とは思えない、とびっくりされたという話を伺ったことがあります。日本の刑務所は受刑者の管理・監督が徹底されているのです。受刑者のほとんどは将来社会復帰するのであり、刑務所はそのための訓練をする場なんです。したがって、本来は自由な社会生活を送れるようにしなければなりません。そうなっていないから、出所後の再犯率も高い。刑罰を課すということの本来の意味が日本の国民には知らされなければなりません。裁判への関心が高まっていますので、このWEBサイトではこういう点も主張していきたいと思います。
伊藤  そうした刑務所の現状にはその予算が不足していることにも原因があると思います。そして、その背景には、国民の中に「なぜ悪いことをした人たちのために税金を使うんだ」という意識が根強いということがあるのではないでしょうか。犯罪を犯してしまった人たちを社会から排除・隔離するというのではなく、その人たちをどのように社会復帰させるのかを考える必要があると思います。
大出  犯罪者というのは危なっかしいと見られがちです。犯罪を犯した本人にも責任があるにしても、犯罪というものは、いわば社会の歪みの中に生起するのであって、その社会をどのようにつくりあげるのか、犯罪を犯した人に制裁を課しながら、更正してもらい、社会復帰後に共に生活していける社会をどうつくっていくのかということを考える必要があります。社会の構成員一人ひとりが社会に貢献し合うことによってこそ皆が有意義な生活を送れる、ということをあらためて確認したいと思います。それは私たち国民一人ひとりに問われるのです。
伊藤  刑務所の実態などを知ることは犯罪者に刑罰を課すことの意味を考えるきっかけになりますね。裁判員になる人たちにも知ってもらいたいと思います。
大出  日本の刑務所の問題点を理解するためには、他国の刑務所と比較することも重要です。明治時代の社会運動家・大杉栄がフランス・パリで収監されていたことを綴った獄中記があります。確か、大杉栄は刑務所内でレストランから料理を取り、ワインを飲んでいたことが綴られていたと思います。諸外国の刑務所では収監者の様々な自由が認められているんです。日本とは大違いです。
伊藤  日本の刑務所内では、人が人として扱われない状況があります。犯罪者を刑務所に入れるということ、つまり人を裁くということの意味があらためて問われなければなりません。裁判員制度がそのきっかけになる必要があります。